2007年10月 1日

第3回 明治維新の鎮魂碑(2)


西南戦争の三つの碑〜九段会館
 九段下の交番のとなり九段会館(九段南1−6)の駐車場横の植え込みに、蕃書取調所跡の説明板がある。蕃書取調所は安政4年(1857)に徳川幕府が設 置した洋学研究教育機関で、明治政府移行後は大学南校(東京帝国大学の前身)として引き継がれた。施設は、開設3年ほどで現在の三崎町辺りに移転したとい われ、今は往時を偲ぶすべもない。昭和9年(1934)に軍人会館として建設され、2.26事件の戒厳司令部が置かれたことで有名な建物は現在も残り、九 段会館として親しまれている。


軍人亀鑑碑

この駐車場の植え込みに三つの碑が建っている。守衛所のすぐ裏にある「軍人亀鑑碑」は、西南戦争で西郷軍に包囲された熊本城から脱出し、明治政府軍 への伝令役を果たした陸軍歩兵伍長谷村計介(1853〜1877・田原坂で戦死)の顕彰碑。谷村は、「修身」の教科書にも登場し軍人の鑑とされた人物で、 三つの碑の中でもひときわ大きい。 明治16年(1883)の建碑で、「軍人亀鑑」の篆額は左大臣参議陸軍大将二品大勲位熾仁親王。撰文を熊本鎮台として谷村に伝令役を命じた陸軍中将従四位 勲二等谷干城。書は、大域成瀬温と錚々たるメンバーである。成瀬の書は、やや細みの温和な風。井亀泉鐫とある。碑陰には、建碑に携わった委員の氏名がびっ しりと刻されている。


軍人亀鑑碑碑字

 真ん中の碑は、「西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑」。明治14年(1881)の建碑で、篆額は熾仁親王。撰文は修史館一等編修従五位川田剛(甕江)。従五位長

(廿の下に火=ひかる)書とあり長三洲が顔真卿風で雄大に書いている。刻字は、廣羣鶴。碑陰には、建碑の経緯が記され98名の戦死者が刻まれている。碑陰記の書者は、日高秩父。


陸軍士官学校生徒之碑

 長三洲(1833〜1895)は、豊後日田に生まれ廣瀬旭荘に師事。明治政府で木戸孝允に見いだされ文部省学務局長、一等編修官、侍読、東宮侍書 等を務めた。漢学と書をよくした人で、顔真卿風の書風で一世を風靡した。書家として『楷書天地帖』『真書千字文』などを著している。日高秩父(1852〜 1920)は、長三洲の門下で梅溪と号した。「尋常小学書き方手本」(明治36年)など、習字教科書を多数書いている。


陸軍士官学校生徒之碑碑字

 左側に建つ 「表忠碑」は、「明治十年二月鹿児島逆徒作乱欲取熊本城...」と碑文が刻まれるもので西南戦争の翌年、明治11年(1936)の9月に建てられている。篆額は、これも熾仁親王。中邨正直の撰文を、長

(廿の下に火)が書し、廣群鶴が刻している。碑陰には東京府管内区長、戸長が名を連ねる。


表忠碑

国立国会図書館のデジタルライブラリーを開くと、『表忠帖』としてこの拓本が出てくる。中邨正直(1832〜1891)は、中村敬宇。福沢諭吉、森 有礼、西周などとともに明六社を設立。東京大学教授、元老院議官などを務め、教育者、啓蒙家として名を馳せた。スマイルスの著書を『西国立志伝』として翻 訳出版し、当時のベストセラーとなったことでも知られる。


表忠碑碑字

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