2007年9月 1日

第8回 明治維新の鎮魂碑(1)


靖国神社の書碑

  九段にある靖国神社は、戊辰戦争の「官軍」戦死者の慰霊のために、招魂社として明治2年6月に創建された。明治維新の志士達の慰霊の地である。京都の招魂 社(霊山護国神社)のひっそりとした佇まいと異なり、どこか厳めしさを感じるのは、明治新国家の象徴的場所ということよりも、その後の政治体制の中で特別 な意味を持たされて来たからなのであろう。


靖国神社石標

 明治14年に東京に出てきた田山花袋は、『東京の三十年』(岩波文庫)でたびたび招魂社の様子を書いている。牛込の住まいから、神田方面に行くの に毎日のように招魂社の境内を通っていたようで、鉄の華表(とりい)や、大村益次郎の銅像、「靖国神社」石柱などのことを思い出とともに語っている。「そ の時分は、東京は泥濘の都会、土蔵造りの家並みの都会、参議の箱馬車の都会、橋の袂に露店の多く出る都会」と冒頭に書いているように、今から思えば、夢の ようなもので郷愁を呼ぶ世界である。

 靖国神社参道右手にある、天を突くような石標。拳骨が入りそうな、深い彫りの楷書で碑側に明治二十六年建とある。建碑した宮司などの名とともに、書 吉 田晩稼とあった。花袋も、「吉田晩稼の石柱」と書いているので、書家としての晩稼は、当時は想像以上に有名な人だったのであろう。吉田晩稼は長崎に生まれ で、香竹と号した。明治維新後、海軍任御用掛などを務めたが、まもなく官を辞し書の教授に専念する。明治40年(78歳)歿。

 参道中程に大きな銅像がある。「兵部大輔大村益次郎銅像」である。大村益次郎は、長州藩の出身で、もとの名は村田蔵六。周防の医家の出身で、廣瀬淡窓に 儒学を、緒方洪庵に蘭学を学んだ。戊辰戦争では、三条実美に随行し、彰義隊討伐を指揮している。明治二年に新政府の兵部大輔となり軍制改革に取りくんだ が、「不平士族」の反感を買い、その年の九月に京都三条木屋町で刺客に襲われ、同年十一月に大阪で歿した、46歳。以前見た映画「ラスト・サムライ」に、 維新に功績のあった武士(武士団)と、廃刀令を推進し洋式兵制(国民皆兵)を導入する人物の軋轢が描かれていたが、武士と武士道は明治新国家の確立ととも に滅んだということなのであろう。それを先駆けた大村は、兵を指揮したが武士階級の出身ではなかった。西南の役で敗れた、西郷隆盛との違いである。


大村益次郎像と大村益次郎像碑文

 大村像は明治15年に制作を依頼し、明治26年に建てられた我が国最初の西洋式銅像といわれ、陣羽織を着け双眼鏡をもち東北を望む姿は、上野東叡 山に立てこもる彰義隊討伐の様子なのだという。銅像は大熊氏廣の制作で、胴の部分に三条実美撰並書の碑文がぐるりと刻まれている。招魂社社地を選定し、近 代兵制の礎を築いた、神社創建の功労者の像と銘である。

参道右手の森に、碑が二つある。 「日露戦争 常陸丸殉難記念碑」は、東郷平八郎題。碑陰記、荒木貞夫陸軍大将揮毫。「西伯利亜出兵 田中支隊忠魂碑」昭和9年2月建、昭和43年再建。大井成元陸軍大将揮毫。後者は九段会館にあったものが平成8年に移された。

 社務所の前に、「為萬世開太平 八十叟貫太郎書」と書かれた碑がある。昭和天皇在位六十年を記念した碑で、鈴木貫太郎(ポツダム宣言受諾時の首相)が昭和21年に揮毫した条幅をもとに刻されたもの。昭和61年建。


鈴木貫太郎書碑

高田竹山の篆書、九段坂公園の碑
  靖国通りの九段坂を上った左側、北の丸公園の入り口(田安門)を過ぎたところに、小さな公園があり高さ16メートル余りの「常燈明台」(明治4年建) と銅像が2基ある。手前の品川彌二郎像は、明治40年の建立で題記は元帥海軍大将西郷従道。彫像は監督高村光雲・制作本山白雲。品川彌二郎は、元萩藩士。 吉田松陰に師事し、攘夷派の志士として英国公使館焼き討ちなどに加わり、後に薩長同盟に尽力した。内務大臣、枢密院顧問官を歴任明治33年(56歳)歿。 トコトンヤレ節の作詞者と言われている。


左から常燈明台、品川弥二郎像、大山巌像

 隣の騎馬姿の銅像は元帥大山巌像。薩摩出身で西郷隆盛、従道兄弟のいとこ。西南戦争では、政府軍の指揮官として戦い、日露戦争では満州軍総司令官となった。陸軍大臣。像は三宅坂にはじめ建立されたが、戦後芸大構内にあったものをここに再建したといわれる。
  再建時にコンクリートブロックに嵌め込まれたらしく、銅像と平行して碑が建てられている。碑字は、かなり大きい迫力のある篆書。縦39センチ横27センチ のプレートに1字ずつ3字19行が刻まれている。末尾の石には4行16字が刻まれ、大正の紀年があるが、年号は欠けていて読めない。書高田忠周、田鶴年刻 とある。高田忠周は説文学の大家で「五体字類」を監修した高田竹山。著書に『古

(ちゅう)篇』『朝陽閣字鑑』などがある。文久元年(1861)〜昭和21年(1946)。竹山渾身の作であろう。



大山巌像記と碑文部分

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