2014年1月 8日

書と身体──『メルロ=ポンティ・コレクション』

『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま学芸文庫 1999)は、「書くこと」がどのようにして可能なのかという問題を考えさせてくれる本です。ponty_s.JPG

モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)はフランスの哲学者です。フッサールとハイデガーの後をついで「現象学」を発展させた人物だということになっています。この文庫本は主著の『眼と精神』『知覚の現象学』には収められていない論文を集めたもので、主に〈身体〉という考え方を手がかりに世界と主体とのかかわりを考えることがテーマになっています。「書」について書かれたものではありません。しかし、「書くこと」はどのように起こり、なぜ私たちはそれに魅力を感じるのか、といった問いへの新しい手がかりを予感させてくれます。
メルロ=ポンティの思想の射程は広く深いものですが、私にはそのアウトラインを手際よく紹介する能力はとてもないので、それについては入門書を読んでいただくとして、この本にはたとえば次のようなフレーズがあります。
 
それぞれの色、それぞれの音、それぞれの手触りの肌理、現在と世界の重さ、厚み、〈肉〉が生まれるのは、それを感受する者が、ある種の〈巻き込み〉や〈二重化〉によって、それらのもののうちから自分が生まれると感じるからであり、自分がそれらと必然的に同じ質でできていると感じるからである……(問い掛けと直感)
 
メルロ=ポンティのテキストはまるで詩を読むような体験を与えてくれます。
この本の訳者である木田元氏による明快な解説「メルロ=ポンティの〈身体〉の思想」を参照しながら理解しようとすると、ここで述べられているのは、世界は外部に自分と無関係に広がるものでもなく、また単に自分の心中に映じたものでもなく、世界を体験することは、自分と世界がある「場所」において起こる相互作用である、ということだと思います。そこで起こっているのは、その対象が私たちに働きかけ、その質や位置や変化に私たちが参加しているような経験であって、あたかもそれは「見る」ことにおいてその対象に「見られる」ような経験でもある。〈肉〉とは見るものと見られるものの間にある経験の作る奥行や厚みのようなものを指しており、それは「見る者の身体性を構成すると同時に、見られる事物の可視性を構成する。この厚みは見る者と見られる事物の間の障害物ではなく、その交通の手段である」(同)。つまり自分と世界は、絡み合いながら経験を作り出しているのです。「世界とわたしは互いに互いのうちにある」(同)。
 
この思想は、自分の書いた文字に親しみを覚えたり、誰かが書いた文字に魅力を感じたりすることの秘密にも通じているのではないかと感じさせます。私なりの感じ方にすぎませんが、つまり「書くこと」は主体の一方的な世界への発信ではなくて、対象との絡み合いの中で起きているのではないのかということ、そしてそれを媒介しているのは身体、つまりは手とその延長である筆なのではないか。メルロ=ポンティに触発されて私が考えてみたいのは次のようなことです。
〈手〉と親密な関係をもった筆や鉛筆が紙をこすりながら炭素の粒子を残していく過程が〈眼〉に見えるものとしての線を手元で出現させる。その線が持っている肌理は〈手〉と〈眼〉によって同時に触れることができるものとして感じられる。一方で、〈手〉と〈眼〉のあいだには隔たりがあり、しかしこの隔たりを往復することが次の線を書くことを促し、同時に隔たりの作る〈ずれ〉が〈時間〉を生み出し、線の集合は過去への奥行きを伴って統語的な感覚に裏打ちされた〈文字〉の〈意味〉を生じさせる……。
抽象的に感じられるかもしれませんが、「自分の書いた線が自分に属している」と感じられるのは、このような過程が繰り返されるからではないでしょうか。この感覚がなければ人は文字を書くことすらできないのではないかと思います。少なくとも私にとって本書は、自分にとっての「書くこと」の作る「自分と自分との関係」が実感される幸福な書物なのです。

目次
言語について
身体について
自然について
政治と歴史について
芸術について

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