2013年6月 2日

書の「残像」──外山滋比古『修辞的残像』みすず書房

外山滋比古『修辞的残像』みすず書房(1968)は、書を主題にした本ではありませんが、書かれていることは、書を私たちがどのように体験するかに関わる重要な指摘が含まれていると思います。

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外山氏は、もともと英文学者ですが、言語学や教育論などの著作も多く、数年前に『思考の整理力』(ちくま文庫)がベストセラーとなって、お読みになった方も多いでしょう。文学作品が単に著者から発信されたものとしてでなく、無数の「読者」が関与して成り立っている、という立場の作品論などが広く知られています。この「修辞的残像」は文学作品の「読み」に注目した文芸批評ですが、書の表現と鑑賞にも示唆的な部分が多いと考えて紹介します。

言葉が文字として表現されるとき、現在では一文字一文字が切り離されて書かれるのが普通です。仮に連綿で書くときにも一字一字の単位は意識されているはずです。書く側が句読点を打ったり、改行したりするのは、その連続感を意味と対応させてコントロールしようとするからです。ところが私たちはそれを連続したものとして読みます。文章を読んで、意味を読み取ろうとするときには、現在読んでいる文字より「前の文字」を反芻しながら読んでいるはずです。そうでなければたとえ短いメッセージでも読み進むことはできないでしょう。つまり、読むという行為は、「前の文字」の記憶を揺曳させながら、その連続感の中で、「次の文字」を体験することなのです。「前の文字」の記憶が外山氏が「残像」と名づけている体験です。

「映画が一つ一つは静止し、相互に少しずつ違った像を一定の速度で映写すると、われわれに運動の錯覚を生ずる、その錯覚を利用したものであることは周知である。この錯覚を残像という。言葉を「読む」に当たって、姿のない牽引に感じ、非連続の言葉から動きを感じとる能力も、やはり残像作用の一種と考えてよいであろう」

私たちが書作品に対峙して、全体から受ける響きのようなものを感じながらも、文字を追っていくときにはこのような体験をしているのではないでしょうか。文字は点画をある順番に継起的に書かれることで成り立っていますから、たとえ古代文字を読むことができなくても、たとえ一文字であっても、「前の文字(点画)」と「次の文字(点画)」が作る連続感、継起性を体験することが書を「体験する」ことではないでしょうか。書が音楽と似ているとしばしばいわれるのは、こうした意味を持っていると思います。
外山氏は残像に加えて、文章には「あとの方の表現がさきの方のユニットのもつイメジの残曳に遡行していく作用がある」とも語っていて、これを遡像作用と名づけています。これも書を見ているときにしばしば感じられることではないでしょうか。
書作品の批評に、「余白の響き」とか「文字の変化」などとよくいわれますが、これも文字と文字との間の空間を「残像」によって充填しようとする、または切断された空間にかえって充実した叙情を感じる私たちの心理の働きによって起こることだと思います。
これも外山氏の読者論に触発されて考えることですが、こうしたことは、書く側(表現=著者)と見る側(鑑賞=読者)の両方に起こっているのではないでしょうか。現在では『外山滋比古著作集』全8巻 みすず書房で読むことができます。

目次
第1部
修辞的残像覚え書
意味の交響
統合現象

第2部
伝達のグラマー
童話の世界
表現の前後関係

第3部
読者の方法
「読者」に関する断章
読者論の輪郭
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