2013年9月 7日

台湾現代詩の言葉──鴻鴻『新しい世界』思潮社

鴻鴻『新しい世界』思潮社(2011)は、台湾現代詩の新鮮な魅力を伝えてくれると同時に、私にとっては言葉と書の関係を改めて考えさせてくれる一冊です。
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台湾での漢字のあり方について、「大陸は簡体字、台湾は繁体字」程度の認識しかなかったのですが、台湾の言語と文字について少し調べる過程で、台湾の現代詩に触れる機会がありました。いくつかの詩集をぱらぱらと読んでみて、その新鮮で直截的な言葉に驚かされました。

二〇〇〇年代初頭から日本語訳が紹介されるようになって、いくつかのアンソロジー(『台湾現代詩集』国書刊行会など)とシリーズ(『台湾現代詩人シリーズ』思潮社)が日本で刊行されています。
映画監督としても知られる1964年生まれの詩人、鴻鴻『新しい世界』から、部分的で恣意的な引用になってしまいますが、いくつか紹介してみましょう(三木直大訳)。
 
……ぼくの/不存在を/長い午後に/あるいは疲れきった夜には存在しない/きみの希望の中に……繰り返し/反復される言葉の隙間だけに/存在の無意味を/真似ようと試みながら//ぼくは存在できる/きみの舌先で溶けるキャンディのように/ぼくは歌の最初の二行だけ歌える……(「不在」)
……ぼくはどこにいようと、いつもそこにはいない/ぼくは何を言おうと、すべて別の意味だ/ぼくは何を夢見ようと、いつも醒めている/ぼくは愛する、でも愛しているのは他の人でもないし、きみでもない……(「どこにいようと」)
 
……象が//都市を通り抜ける/霧の/方法で//彼はそっと触れる/すべてのものに/でもぼくらにはわからない/彼が行ってしまって/壁に残された印に/やっと気づく……(「都市の動物園」)
 
特徴的なのは、瑞々しい言葉でありながら「不在」が強調されていることです。詩は記号で成り立っているのに、この中では記号も役立たずです。こうした認識の背景には台湾の多民族、多言語の状況、そして台湾近代史の複雑さがあるようです。本省人、外省人、少数民族によって構成され、もともとの台湾語の上に日本語や公用語としての北京語、英語などがモザイクのように存在する台湾では、それだけ文字のあり方も複雑です。繁体字はこの中で「守らなければならない中華文明」のシンボルとして戦後に意識的に選び取られたものでした。「母語」は常に他者の言葉としてあり、漢字も他者の文字です。こんな詩もあります。
 
……インディアンを追い払い/アメリカをたてる//ユダヤ人を追い払い/ドイツをたてる……すべての不純物を追い払って/始めて純粋な詩を抽出できる……そうした文字の屍体/そうした文字の難民キャンプ……(「自家製爆弾」)
 
「純粋な詩」などないのでしょう。すべての言葉と文字は「難民キャンプ」に屍体か廃品のように転がっているのです。台湾の現代書について、私は何も知りませんが、こうした文字意識が反映しないとは考えにくいと思います。
ひるがえって、日本人は日本語とそして書を「美しい」と無条件に信じて自分の専用物のように考えていますが、日本人にとっても漢字は他者のものです。そしてもはや流麗な仮名文字や草仮名は日常言語の基盤ではなくなりつつあります。そう考えると、逆に書=手書きの実践を通じて、新しい言葉を模索する可能性があるのではないでしょうか。
台湾現代詩の魅力について示唆してくださった台湾現代詩研究会の三木直大先生(広島大学)に感謝します。『台湾現代詩人シリーズ』思潮社)はすでに10冊以上が刊行されています。

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