2007年6月 1日

第6回 本駒込・高林寺の幕府侍医墓碑


  地下鉄本駒込駅そばにある天栄寺(本駒込1-6-16)に、「駒込土物店縁起」碑(昭和38年建)がある。寺にはかつて大きなさいかちの木があって、江戸 市中へ野菜を運ぶ農民が毎朝ここで休んだのが駒込野菜市場の始まりといわれる。江戸時代には、八百屋お七の家もこの辺りにあったといわれるが、市場は昭和 の初めに豊島区に移転して今その面影はない。駅前から動坂方向に行くと右手に駒本小学校に通じる路地があり、高林寺(向丘2-37-5)に着く。ここは、 緒方洪庵をはじめ幕府侍医の墓が多い由緒ある寺である。

緒方洪庵墓所の鳴鶴と一六
追賁之碑(図1)
本堂裏手の、墓地中程左側に緒方洪庵の墓がある。緒方洪庵は、蘭学・蘭方を極め、天保9年に大阪に適塾を開き福沢諭吉、大村益次郎をはじめ明治の逸材を育てた。文久2年に幕府侍医・医学所頭取となったが翌3年に逝っている。

 右側にある「追賁之碑」(図1)は、明治42年に洪庵に対して従4位が追贈されたことを記念して建てられたもの。森林太郎(鴎外)撰、日下部東作(鳴鶴)書并篆額、井龜泉刻とある。碑文は悠然とした楷書で、鳴鶴円熟期の作である。


追賁之碑(図1)

 真ん中にある洪庵の墓表には「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」(図2)と隷書の題があり、墓碑銘は茶溪古賀増の撰文を、三澤精確が楷書で書し、廣羣 鶴が鐫している(図3)。左側の「緒方洪庵夫人之墓」(図4)も隷書の題で、碑文は 宮中顧問官佐野常民が撰し、隷題と楷書の碑文を内閣書記官巌谷修(一六)が書している。建立は明治20年丁亥とあるから、今から丁度120年前である。刻 者は井龜泉。


左から緒方洪庵之墓(図2)、洪庵墓誌(上)
洪庵夫人墓誌(下)部分(図3)、緒方洪庵夫人之墓(図4)

 洪庵墓所の手前に、二基の碑があった。左が「節斎岡先生碑」(図5)である。幕府侍医岡節斎の碑で、明治12年に建てらている。篆額は松平齋民、 下部に蘭の植栽があって読みとりづらいが、市河三兼書とある。米庵の実子、萬庵(天保8年〜明治40年)の楷書碑である。その下は刻者であろう、廣の字が 見えるが下部は不明。たぶん廣羣鶴鐫と刻してあるのであろう。右の碑は、「峰本一郎墓誌」。撰文は重野安繹(成斎)、題は行草で得能良介(紙幣局長)、碑 文は楷書で桂洲伊藤信平とあった。明治11年の建立である。


節斎岡先生碑(図5)

岡家墓所と市河米庵、萬庵
 多田親愛に師事した書家で、アララギ派の歌人でもあった岡麓の墓があるというので探してみた。墓地の奥、隣の蓮光寺の墓地と接する所に「岡麓之墓」(昭 和26年没)はあった。岡一族は幕府侍医の家柄のようで、驚いたことに林立する墓の中に市河米庵書の墓碑があったのである。「勁齋岡先生墓」と墓表に記さ れた墓がそれで、碑側に「西城侍医法眼勁齋岡先生墓表」とあり「文政十三年 安積信撰 市河三亥書 廣羣鶴鐫」(図6)とあった。信は艮齋、三亥は米庵の 名である。安積艮齋(寛政3〜万延1)は、福島県郡山市の安積国造神社祠官の家に生まれ、昌平黌教授となった。門人に岩崎弥太郎、重野成齋、中村敬宇、三 島毅などがいる。並びにある「了庵岡先生墓」は、文化元年のもので鈴木清煕書、廣羣鶴鐫。「宗観岡先生墓」も文化元年で鈴木清煕書とあった。鈴木清煕につ いてはつまびらかでない。通路を隔てた左手前に「穀庵岡先生墓」(図7)があり、「明治二十三年、浅田惟常撰、市河三兼(萬庵)書、井龜泉鐫」とあった。

 高林寺にはほかに、境内入り口近くに、明治16年建の「藤野久蔵君墓誌銘」があり、北羽大泉勝山重良撰、近江武藤本全書、井龜泉刻字とあった。また洪庵 墓近くの塀側に昭和14年に東京女子高等師範学校卒業者が建てた「神田先生哀悼碑」があり、楷書の碑文に海軍少将秀島成忠書とあった。


左から勁齋岡先生墓(図6)、穀庵岡先生墓(図7)

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