現代書道の父

比田井天来

思 想

比田井天来は「現代書道の父」と呼ばれています。
その理由として、「古典の臨書」という学書の方法論を確立したこと、師の筆法によらず独自の筆法をあみだし、生涯新たな境地を開拓し続けたこと、その門下が「前衛書」「近代詩文書」「少字数書」という新たな分野を起こしたことなどが挙げられます。そして、それだけではなく、明快な論理的自覚があったことも忘れることはできません。
天来が主宰する雑誌などに発表した書論は、他界する一年前にまとめられ、『天来翁書話』として誠之書院から発行されました。その後、比田井南谷が常用漢字・現代仮名遣いに改め、雄山閣出版から『書の伝統と創造』というタイトルで発行されましたが、現在は品切れとなっています。
そこでこの中から抜粋し、天来の思想の根幹をご紹介しましょう。


師法、古なるべし

手習いの手本は古典名品に限定すること。これが天来の主張の基本です。先生の手本はまねがしやすいけれど、それ以上にはなれない。古典はその多くが拓本なので、見えない部分もあり難解ですが、辛抱強く学ぶことによって、書の本当のよさを理解することができるのです。

師法、古なるべしということがある。古人の書を学んだほうがよくもでき、また自然に韻致のある書も書けるからである。絵画などには、天然物で定っていて、これを師とすることができるけれども、書は人の作ったものであるから、人の手本を学ぶよりほかに方法がないのである。むかしの人の書いたものはことごとくよいというわけではないが、書は古にさかのぼるほど巧みであり、また韻致にも富んでいるということは争われないのみならず、永い年代中で傑出した大家中から選ぶのであるから、悪いはずはないのである。手紙を書くとか、実用にまにあわせるぐらいには、いまの人の書いた手本で学んでもさしつかえないが、額や幅を書かんとする者が、現代人の流儀を習うということほど不見識にして無意義のことはないのである。賞鑑書を作る者は、古人の書を学ばなければ、絶対にこれの格式を上げることはできない。古人の書を学べば、永い年代の名人のうちから、洗練されたもののみを選んで字ぶことのできるばかりでなく、種々の人の書を学んでみると、書というものがこのようなものだということがよくわかるから安心して書くことができる。この安心して書くということが、韻致のある文字を作るのに必要条件であろうかと思われる。

巧と拙

書がうまくなりたいと、誰もが考えます。しかし、それだけでよいのでしょうか。うまい書が理想的な書なのでしょうか。本当によい書とはどんな書か、天来の考えを聞いてみましょう。

世間の人は多く巧の妙たることは知っているが、拙の妙たることを解している人はいたって少ない。書評に古拙とか奇古とか称するのは、みなこの拙中の妙を称するのである。巧と拙を文質に配してみると、拙は質に属し、巧は文に属している。質は飾りのないもの、文は飾りのあることである。また、生と熟とに配することもできる。拙を含んでいない巧は真の巧ではない。巧拙を打して一丸となし、しかる後に真の巧となるのである。これを称して至巧という。

生書と熟書

書の巧拙の問題から、生と熟の問題へと理論は発展します。

あらゆる芸術作品にそれがあることと思いますが、書には生熟の両面があります。これは芸術的な書を学ぶうえにも、またそれを鑑賞し、かつ鑑識するうえにも知っておかなければならぬ必要なことでありますから、以下生書と熟書ということについて述べてみることにいたします。生書とはナマな書、ウブな書、未熟な書ということであり、熟書とは熟練した書、てなれた書ということになります。子どもの書いた書は生書で、専門家の書は多くは熟書であります。子どもの書は未製品であるが、どこかウブなところがあっていや味などというものは少しもない。専門家の書はうまいが、そのうまい熟練したところから、変化のない一調子の書になりたがる欠点が生じてくるのであります。さらにわかりよく柿にたとえて申してみますと、渋いのは生書で、熟したのは熟書であります。渋いのは悪いけれど未来があります。甘く熟したのはよいけれども、一歩進めば爛熟して腐敗に向っていく。書も学ばないで生硬なままでは価値はない。どうしても学んで熟練していかなければならぬ。学んで熟練を進めていけば熟が過ぎてどうしても爛熟する。爛熟すれば調子書きになり俗書になってしまう。さてどうしたらこれを救うことができるか。渋柿はついに熟柿となり、腐ってしまうのが当然でありますから、いかんともすることはできませぬが、書は爛熟しようとするときに渋味を注射して生にかえすこともできるし、また熟させることもできます。生にかえしても学んでいればまたすぐに熟しますから、ときどき生にかえす必要があります。熟した後の生は、はじめの生とは趣を異にし、芸術価値に大なる相違のあることを知らなければならない。この生熟二道を進んで大成していくのであります。

慣れるより習え

天来は時々、誰も考えないようなことを口にしたそうです。惰性と陳腐を嫌い、常識にまどわされることなく真理を追究すること、これが天来の生き方でした。

世の中のことわざに「習うより慣れろ」ということがある。このことわざは、はなはだ無意味なるばかりでなく、かえって害毒を流すおそれがある。習うということには心が付随しているが、慣れろということには心の働きがないから、慣れれば慣れるほど、心の支配を離れて機械的になるのである。この機械的になったところがいわゆる病菌に冒されているので、これより発生するところの毒素は芸術を俗了し、代議士を党派根性にし、官吏を杓子定木にし、教員を蓄音器にし、あらゆる階級を嗇毒して、ついには国家を萎扉消沈の域に導くのである。ゆえに吾輩はこのことわざを訂正して「慣れるより習え」と改めたいのである。
慣れるということは、同じことがたび重なれば癖となるのである。はじめは人の心から新しく出たのであるが、これが習慣となり、ついに癖となるのである。癖には心がないから、したがって変化もなければ意匠のあるはずがない。ゆえに癖によって動くものと癖によって作られたものとは、すでに作者の性情とははるかに遠ざかって、心霊の閃きは薬にしたくもないのである。心のないところの癖から出た力は、すなわち機械と同様でなければならぬ。ゆえにこれによって作られたものは、たとえ人間の手で作られたにもせよ、機械製のものと同様なる傾向を帯びてくるのである。
ゆえに芸術としては、この機械的に作られた部分が多ければ多いほど、素人目には滑らかでそろってきれいに、いかにも小器用に見えるのである。これを一般に俗気というのである。そういうと、素人はきれいに見えるものはみな俗気だと早がてんするおそれを生ずるのであるが、たといきれいであっても、一調子でなく、心霊の閃きが見えて筆意のあるものには、けっして俗気はないのである。ことさらに古拙に書こうとして顛動をつけたり、延々したり、手先で小細工をしたものは、これこそ真に悪むべき俗気であらねばならぬ。また、すべて芸術は、調子で作るということは一大禁物である。調子とは勢力が惰力となり、それが病的に習気となり、ついに調子となったのである。

破壊と創造

天来は、師、日下部鳴鶴の筆法に疑問をもち、直接古典を研究して「古法」を発見し、それまでになかった新しい書の世界を切り拓きました。また、63歳の頃には新たな筆法を発見し、デモーニッシュと評される独特の造形世界を繰り広げます。同じところにとどまることを嫌い、常に変貌を遂げ続けた作品の数々。苦労をして作り上げた価値を惜しげもなく破壊し、未知の表現に挑んでいった生涯をもっともあらわしているのが、以下の文章です。

芸術家は小さい個性に安住し、それを発揮して一家を成すというようなケチの量見を出してはならない。よろしく小さい個性を陶冶し修養して、ますます大きくすることを第一に勉めねばならぬ。
(中略)
自己流の字ばかり書いて個性に安んじていたら、すぐに習気が出てきて死物になる。ゆえに碑版・法帖そのほかあらゆる方面から古名流の性情を情いきたって、わが固有の性を一時破壊しなくてはならぬ。これを破りこれを破り、さらにこれを破ってまったく破るべきものなきにいたれば、いままで自己の個性と見ていたものは、隣れむべき六尺の腐肉に食い込んでいた寄生虫であらねばならぬ。この寄生虫を殺しつくして、しかる後に真の自己が出てくるのである。
ゆえに芸術家は個性発揮などというケチな考えをやめて、むしろ自己の個性を陶冶し、発揮することを勉めねばならぬ。もし、他人の性情と著しく異なっている個性の持主の、その個性を発揮しえたるものが真に尊ぶべき芸術であるとすれば、天下の大悪人が芸術家になれば大家たらざる者は一人もないのである。個性発揮といわんよりは、むしろ野性発揮というほうが適当している。しかしながら、この言葉が西洋の芸術語を翻訳したものであるとすれば、芸術的理解のない人の誤訳であろう



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