駒井鵞静先生
先生に電話をするときには、いつも、ちょっとだけ覚悟が必要だった。雄山閣に勤めていた頃だ。
最初は『現代書』(宇野雪村・比田井南谷監修)という本に作品掲載の依頼をした時だった。
この本は全三巻で、ほかにもたくさんの先生から作品写真をお借りした。ほかの先生方は素直に郵送してくださったのに、駒井先生だけは違っていた。
「いつ取りにきますか?」
行くのかー。
まさかそんなに長い時間、先生のお宅に滞在するとは夢にも思わず、私は会社を後にした。
うかがってすぐ出してくださったのはこの作品写真とほかに数点。どれも大判の紙焼きで、モノクロだったが、とてもよい写真だった。この作品が一番印象に残った。聖書のことばだということは、後で知った。
先生のお話は情熱的で、とてもおもしろかった。いつの間にか引き込まれてしまい、時のたつのを忘れた。話題は果てしなく多方面にわたり、聞いている私までうれしくなるほどだった。
あれ、今何時だろう。時計を見たら1時間経過。早く帰らなきゃと思いつつ、ついつい聞きほれて3時間ほど経ったころ、ようやく帰れそうな気配が・・・。すかさずおいとまを告げた。
帰り道、あーあ、と思ったけれど、なんだか力が湧いて来て、うきうきした気分だったこともたしかだ。
その後も、『空海の書論と作品』『書の名跡めぐり』など、たくさんの本を書いていただいた。ずいぶん宣伝もしてくださった。
天来書院を作ってからは、お手本やビデオ中心に発行したので、先生とお目にかかる機会はなくなった。ご病気だということを知ったときには、かなり重体だったので、お見舞いにも行かずじまいだった。
心のこもったご葬儀は、とても感動的だった。
一昨年、渡部大語先生から作品集発行の依頼をいただいたとき、昔の思い出がよみがえったのだった。
駒井先生の作品には不思議な浮遊感がある。力強さと同時に、地面に縛り付けられていない明るさがある。
この作品を見て、自殺を思いとどまった青年がいたという話を聞いた。
現代書における「ことば」の意味を、考えてみたいと思っている。