現代書道の父

比田井天来

比田井天来と日本近代書道のあゆみ

比田井和子
はじめに

明治維新によって、日本は二百五十年近く続いた鎖国状態から解放され、西欧諸国との世界的同時代性の中に入る事となった。士農工商の身分制度や、狭い幕藩体制の廃止は日本の政治、経済、社会、そして文化全般にわたって大きな変化をもたらした。
同時代の一九世紀後半の西欧でも、芸術において大きな変動があらわれていた。特権的な貴族階級の趣味であった美術や音楽が大衆のものとなり、かつての目標であった「快適な美しさ」は価値を失い、別の新たな価値が模索された。さらに科学技術の進展によって、実証的功利的風潮が高まり、芸術の存在意義そのものが問われるにいたっていた。
全世界をおそったこの価値の転換は、日本の書にも押し寄せた。
江戸時代の書は、お家流に代表される和様の書と、漢学者たちによる唐様の書に大別される。特殊な技法の伝承を目的としたお家流はもちろん、漢学者たちにとっても、書は書かれた詩文の意味内容に従属するもので、かつ、書いた人の人格の高潔さと学識の高さを示す基準としてとらえられ、書は自立した芸術と考えられていなかった。芸術家としての専門書家の存在など論外だったのである。
鎖国が解かれ、それまでの価値観が崩壊し、まったく異質の西欧文明が流入する中で、みずからが求める世界を真摯に追求する書家があらわれた。彼らが求めたのは、因習的な場に安住せず、暗黙の了解のうちに温存されていた価値を壊し、新たな芸術世界を確立する事だった。

師、そして同門の人々

維新は、空間的解放だけでなく、時間的な解放でもあった。書における維新、それはおびただしい過去の名品との出会いによって始まった。江戸時代の古典手本は、翻刻が重ねられ、生気の失せた法帖類が中心だった。古典名品が持つ、生命力に溢れた造形的価値は、長く忘れられていたのである。
明治十三年、清国駐日公使、何如璋の招きで中国の外交官、楊守敬が来日した。地理学者で、書の鑑識にも優れていた彼は、中国最先端の研究成果とともに、膨大な古碑帖拓本を携えていた。中でも、それまで知られていなかった中国北朝時代の石刻文字の拓本は、日本の書家が見た事のないものだった。北魏の鄭道昭や龍門造像記などの粗削りで力強い造形美が、書家たちの眼を奪ったのである。
中国に生まれ、三千年以上にわたって愛されてきた「書」は、字をうまく書くための単なる技術ではない。また、人格の高潔さや学識をひけらかすための手段でもない。書は、世界に誇る優れた芸術なのだという自覚が、ここに芽生えるのである。
明治十五年、岡倉天心は「書は美術ならず」と主張する小山正太郎に対して、書の価値は書かれた文章に従属するものではなく、それ自体で自立した造形芸術であると主張した。また「金石の気なく書巻の気なきは俗筆と曰ふべく」(井土霊山)と酷評されながらも、中林梧竹は、優れた造型感覚によって独創的な書を発表し、高い評価を得た。書は学問や人格に奉仕するものではなく、東洋独自の芸術であることが、高らかに宣言されたのである。
楊守敬は、四年間日本に滞在したが、日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯らは、何度も楊守敬を訪れ、拓本類を見、筆談でさまざまの情報を得た。鳴鶴は楊守敬から伝授された筆法である「廻腕法」を駆使して多くの作品を発表し、一世を風靡した。鳴鶴の周囲には、近藤雪竹、丹羽海鶴、井原雲涯、山本竟山、岩田鶴皐ら俊才が集まり、数千の門人を取り仕切っていた。あたかも書道王国のようだったという。
鳴鶴の門人の中で、渡辺沙鴎(一八六三―一九一六)・近藤雪竹(一八六三―一九二八)・丹羽海鶴(一八六三―一九三一)・比田井天来(一八七二―一九三九)の四人は、鶴門四天王と呼ばれている。渡辺沙鴎は中林梧竹に心酔し、個性あふれる作品を書いた。後に比田井天来が結婚した際に、仲人をつとめている。近藤雪竹は鳴鶴の思想を忠実に学び、鳴鶴亡き後は門流の中心となった。丹羽海鶴は鳴鶴の内弟子となった人で、その書風は海鶴流と呼ばれて流行した。鳴鶴門には、このほか井原雲涯、吉田苞竹、川谷尚亭らがいる。
若々しい書家たちは、技巧と習熟に終始する従来の書に対し、力強く生命力溢れた書の根源に迫ろうとしていた。

日下部門下
左から日下部鳴鶴、渡辺沙鴎、近藤雪竹、丹羽海鶴
比田井天来

比田井天来が漢学と書を学ぶべく、故郷、長野県望月町を後にしたのは明治三十年五月のことだった。さっそく小石川の哲学館に入り、書は日下部鳴鶴の門をたたいた。活気に溢れる書道界の中でも、最先端を歩んでいた鳴鶴は、若者の憧れの的だっただろう。その鳴鶴から、天来は客人待遇で迎えられた。
当時の鳴鶴の様子を、天来はこう回想している。


鳴鶴先生は科学者に逢ったように、あちらの法帖こちらの手本と持ち出され、親切に説明をしてくださった。四、五年後に入門をさせていただいたが、先生のお話に、君は古法帖をたくさん持っているから、それによって好きな手本を学んだほうがよい。自分の弟子は吾輩の書の悪いところばかり学んで困るなどとお話があって、道人にははじめから古法帖だけで学ぶことを教えてくださったので、道人はたいへん幸いをした。(比田井天来著「道人の使用した用筆の変遷」『書の伝統と創造』雄山閣出版刊)


鶴門四天王の中、沙鴎、雪竹、海鶴の3人は1863年生まれで、天来だけが九歳若い。また、みずからの書を確立するための方法論も、他の3人とは異なっていた。
鳴鶴の目指したものは、最先端であった当時の中国の書法だったといえるだろう。楊守敬から伝授された「廻腕法」を生涯貫き、また実際に中国へ行って、文人たちと交流している。鳴鶴の門人たちの多くもこの信念にしたがった。しかし天来は違っていた。天来は後に、中国は晋唐まで、日本は平安までを学ぶべきであって、時代の下がった書は手本としてはいけないと主張したが、この考え方の萌芽は、すでにこの時代に見る事ができる。遠い昔の書を、みずからの眼だけをたよりに研究する事によって、真に価値ある世界を拓く事ができると確信していたのである。
誰もが廻腕法の習熟に熱中している頃、天来は、この筆法に疑問を抱くようになっていた。長くやわらかい穂先を紙に垂直に立て、その角度を保ちながら書き進む廻腕法は、中国初唐時代の楷書を書いた時の筆法とは異なっていると感じたのである。
天来が考えた「古法」、それは鳴鶴とは逆に、剛毛筆を用いるものだった。畏友松田南溟とともに、筆法の研究が始まった。そして、大正五年頃から、天来の書は一変するのである。

当時剛い筆を用いるものは下町の寺子屋ぐらいで、邪道扱いをされていたから、剛毛を用いる者は友人間で二人だけであった。(比田井天来著「道人の使用した用筆の変遷」)

その後、丹羽海鶴も剛毛を使うようになった。そのいきさつは「道人の使用した用筆の変遷」に詳しい。
新しい用筆法を、天来は「古法」または「俯仰法」と呼んだ。この用筆法の正当性を証明するために、天来は、五体の古典名品、12種を選び、そのすべての文字を臨書するという計画を立てた。大著『学書筌蹄』である。付録には、古典の文字の形を解説した「字説」をつけるという、用意周到な書物であった。
新しい用筆法によって、天来の書風は一変した。線に厚みが出、迫力と動きが作品に加わり、豪放磊落な趣が生れたのである。
しかし天来はこの筆法を生涯通したわけではなかった。昭和九年頃、二度目の変化が訪れた。剛毛筆に変えて、やわらかい羊毛筆を使うようになったのである。

この法によるときは、羊毛の長鋒筆でいかなる強い字でも書けぬことはない。坂部鶴丘君がこの法は道人独特大発見だと激賞されたが、そういわれてみると、むかしにはない法だと自分でも感心したようなわけだ。今では多くの人がじきにまねをするからもう陳腐にはなったが、字形および筆意の変化はいくらでもできる。(同前)

羊毛筆による俯仰法。それは、天来自身が驚いたほど、変化に富んだ表現を可能にした。線は、今までにも増して厚みをもち、複雑なさまざまの響きを内包している。濃厚さ、強さ、スピード、さまざまのリズム、明るさなど、墨一色でありながら、きわめて多彩な世界が生まれたのである。

「書は芸術である。」今では誰もが口にするこの理念を、作品と理論の両面で示した最初の書家が天来だった。線と字形は、書を造形芸術たらしめる要素である。筆と墨に基づくさまざまの線の表情と構築の多彩さによって、書は西欧の絵画にも負けない、優れた芸術となりうると天来は確信したのである。
しかし、いかなる書も芸術であるわけではない。書が芸術となるために必要なのは「古典の臨書」である。画家がスケッチをするように、書家はみずからの眼だけをたよりに、古典名品すべてを臨書し、その表現力を身につけなくてはならない。特に大切なのは、自分が嫌っている古典を臨書する事である。無縁だと思っていた世界に飛び込む事によって、書家は今まで自分の個性だと思っていたものが、つまらない虫けらにすぎなかったことを知るだろう。この虫けらすべてを殺して初めて、真の個性があらわれる。そこから、書は芸術となりうるのである。
最晩年、天来の作品は、新たな変化の兆しを見せた。天来は昭和十三年二月、帝大病院で手術を受けた。四月末退院、八月再入院。そして十一月以降は鎌倉に移り、静養のかたわら「天来老人」または「画沙老人」と署名した額幅作品十数点を揮毫する。これらの作品には、それまでのスピード感や力強さに変わって、静寂に満ちた世界が広がっている。新たな作風を感じさせるものであった。
作り上げてきたものを躊躇なく壊し、新たな世界へと向かっていくその姿勢は、陳腐と停滞を否定し、常に生命力を絶やしてはならないとする思想から生じている。


世の中のことわざに「習うより馴れろ」ということがある。このことわざは、はなはだ無意味なるばかりでなく、かえって害毒を流すおそれがある。習うということには心が付随しているが、馴れろということには心の働きがないから、馴れれば馴れるほど、心の支配を離れて機械的になるのである。この機械的になったところがいわゆる病菌に冒されているので、これより発生するところの毒素は芸術を俗了し、代議士を党派根性にし、官吏を杓子定規にし、教員を蓄音機にし、あらゆる階級をと毒して、ついには国家を萎靡消沈の域に導くのである。ゆえに吾輩はこのことわざを訂正して「馴れるより習え」と改めたいのである。(「中風書と芸術的書道」同前)


天来の門流

天来はずっと弟子をとらなかったが、昭和四年、最初の弟子が上京し、比田井家の屋敷内に住むことになる。上田桑鳩である。
天来は、実用書の学習法と芸術書の学習法を明快に分けた。実用書では、自分の好きな古典を繰り返して習い、手に癖をつける方法、芸術書では、自分の嫌いな古典を習い、癖をとる方法を基本としたのである。惰性と陳腐を何よりも嫌った天来は、弟子を指導する時にも、これを徹底した。
桑鳩に対しても、毎回異なった古典を課題とした。ひとつの古典を理解したと思ったとたん、それとは逆の性質の古典が課題となったので、混乱したと、桑鳩は回想している。
桑鳩に続いて、金子鴎亭、桑原翠邦、手島右卿、大沢雅休など、天来から呼ばれた逸材が、全国から集まった。天来の主催する書道研究所である書学院は、若い人々の熱気にあふれていた。そして昭和八年、上田桑鳩が中心となって、「書道芸術社」が結成された。「書は芸術である」という天来の思想をさらに発展させ、現代に生きる人間として、自分はどのような書を目指すのか、日夜真剣な討論が重ねられた。ここから戦後、さまざまの新しい書が開花するのである。

敗戦は、すべてを焼き払い、日本人の心に、途方もない傷痕を残した。しかし、書道界にとって、それは新たな出発であった。敗戦の年である昭和二十年に日本書道美術院創立、二十一年には日本書道院結成、二十二年には書道芸術院創立と、書にかける情熱は次々と形になっていった。初の新聞社主催の公募展「毎日書道展」が始まったのは、昭和二十三年だった。
戦後書道界に華々しく登場したのが、比田井天来門流の作家たちである。彼らが作り上げたのは、それまでなかったさまざまの書の分野だった。現在「前衛書」「近代詩文書」「少字数書」と呼ばれるジャンルである。
上田桑鳩は天来門のリーダー的存在であった。その情熱的な人柄は、多くの若い書家を魅了した。日展には改組第一回展から審査員として迎えられたが、昭和二十六年に出品した作品「愛」が伝統派審査員の物議をかもし、昭和三十年に日展を脱退した。在野の旗手としての精神を持ち続けた作家である。作品はさまざまの形式にわたっているが、文字が原点となっているものがほとんどである。晩年近くなると、岩絵の具を使った色鮮やかな作品が増える。書の理論面での業績も大きい。
金子鴎亭が「近代詩文書」の構想を持ったのは、戦前、書道芸術社の時代だった。中国の文学である漢詩や漢文ではなく、現代日本の詩やことばを使って作品にすべきだと主張した。天来は鴎亭に「破蒙」という題字を贈っている。戦後、飯島春敬らといちはやく「日本書道美術院」を結成し、また「毎日書道展」実現にあたっての功績は大きい。
手島右卿は「少字数書(象書)」という分野を開拓した。一字、二字といった少ない字数を素材とし、文字性を追求しながら、現代空間にマッチした新たな表現をめざした。濃墨作品と並び、にじみの美しい淡墨作品が特徴的である。
大沢雅休は昭和24年に棟方志功と出会い、合作を多く発表した異色の作家である。昭和28年、急逝した。遺作「黒嶽黒谿」は、日展からの委嘱出品だったにもかかわらず、陳列を拒否された。力強く暖かい作風である。
天来の次男、比田井南谷は、昭和二十年に、世界初の「文字を書かない書」である「電のヴァリエーション」を書き、翌年発表、新たな書を模索していた作家たちから注目された。彼は書表現の根幹は筆による線の多彩さであると考え、一九五〇年代と六〇年代はアメリカで個展や講演などの活動をした。欧米の抽象表現主義の画家たちにも影響を与えた。
桑原翠邦は、天来の命により中国へわたり、中国人らに書を教えた。天来は、現代中国より日本の書のほうが優れていると考えていたからである。天来没後帰国、天来がしたように、日本全国を行脚して正しい書を説いた。


おわりに

二十世紀日本の書は、古典の再発見から始まった。三千年以上にわたる書の歴史は、多彩な造形の宝庫であるとともに、現在の自分という枠組みを乗り越え、新たな展開へといたる基盤である。この信念のもとに、既成の価値に頼る事なく、独自の世界を拓いた書家が比田井天来であった。その門下からは、かつてない新たな書表現が次々と誕生した。天来が「現代書の父」と呼ばれるゆえんである。
二十世紀日本の書は華々しく開花し、隆盛をきわめ、現在では一つの権威と化して、その範に従うような作品がおびただしく生み出されている。けれども、この二十世紀日本の書の歩みを振り返る時、芸術としての書の本質を改めて認識することができる。
天来は鳴鶴の筆法を疑い、新しい筆法をあみだした。みずからに刃向かうような天来を、鳴鶴は認めていた。そして天来も鳴鶴を尊敬し続けた。芸術の本質は、正しいか誤っているかではなく、その表現の多様性にあることを、二人は知っていたのである。

                            比田井天来と日本近代書道の歩み展・図録掲載
                                               長野県信濃美術館
                                         平成11年2月19日-3月22日

      

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