現代書道の父

比田井天来

略 歴
明治5年(1872・1歳)
 長野県北佐久郡協和村片倉(現在の佐久市協和)に生まれる。幼名は常太郎(つねたろう)。生家は徳川時代から長く名主をつとめ、醤油の醸造を家業とし、天来の少年時代には製糸工場を営んでいた。幼い頃は人一倍腕白だったという。そばを通る中山道は宿場町として栄え、文人墨客の絶えることがなかった。
明治20年(1887・16歳)
 協和小学校温恭課卒業後、野沢町の有隣義塾に入り漢学を修め、かたわら古碑帖により書を独習する。
明治25年(1892・21歳)
 有隣義塾の助教となり、書は独習で、すでに楷書・行書・草書・篆書・隷書の各体に通じ、当時有名だった巌谷一六、日下部鳴鶴の用筆を、東京の筆匠、温恭堂から取り寄せたりしていた。
明治30年(1897・26歳)
 前山村(現在の佐久市)にある曹洞宗の名刹、貞祥寺へ行き、住職の薦めで「知足軒」という扁額を書いたところ、上京して修行をすべきだと住職からさとされる。これがきっかけとなって5月に上京。小石川哲学館に入り、哲学ならびに漢学を修め、書を日下部鳴鶴に、詩を岡本黄石に学ぶ。
明治31年(1898・27歳)
 二松学舎に転学して、漢籍、金石文字学、各体字学を研究する。また渡辺沙鴎、久志本梅荘、若林快雪らと親交し、書道界に知られるようになる。師、日下部鳴鶴は、自分の手本を学ぶのではなく、広く古典を直接学ぶように指導した。筆法は鳴鶴の唱えた「廻腕法」。
明治33年(1900・29歳)
 このころ常太郎を改め、鴻(こう)と改名する。雅号を天来とし、別号の画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)も用いる。
明治34年(1901・30歳)
 鎌倉円覚寺済蔭庵に寓居し、書道専修のかたわら、釈宗演師について禅をおさめる。同年、田中元子(後のかな作家、小琴)と結婚し、新居を神田小川町にもつ。東京陸軍幼年学校の教授嘱託となる。
明治35年(1902・31歳)
 牛込区早稲田34番地に転居。私塾を開いて漢学を教授する。
明治36年(1903・32歳)
 牛込区岩戸町8番地、法正寺内に転居。陸軍助教に任ぜられ、明治45年まで教鞭をとる。
明治38年(1905・34歳)
 三省堂の『日本百科大辞典』全10巻の書道項目を担当して執筆。
大正2年(1913・42歳)
 出雲地方に遊歴し、はじめて書会を開く。この頃から剛毛筆による用筆法の研究を始める。
大正3年(1914・43歳)
 この頃から松方正義公爵の知遇を受ける。松田南溟とともに新しい用筆法を発見する。
大正4年(1915・44歳)
 東京高等師範学校習字科講師を嘱託される。
大正5年(1916・45歳)
 文部省検定委員を委嘱され、8年までその任にあたる。これより2年余、家族から離れて鎌倉建長寺内正統庵に住み、古典に沈潜、古法の筆意を悟り、剛毛筆により書法を一新、近代書芸術展開の基礎を作る。
大正6年(1917・46歳)
 2月、郷里の母校、協和小学校が火災に会う。校舎再建のため、屏風百双会の揮毫料を寄付する。日下部鳴鶴より、雑誌『書勢』(大同書会出版部)の経営を依頼され、この年より刊行を開始する。
大正8年(1919・48歳)
 書学院建設の計画をたてる。東京高等師範学校を辞任の意を嘉納治五郎校長に伝え、後任に丹羽海鶴氏を推挙する。
大正10年(1921・50歳)
 自ら発見した用筆法の正しさを証明するために、古典の全臨集『学書筌蹄』(全20巻・3巻は小琴かな)刊行開始し、書道界に一大エポックを画す。「浅岡先生頌徳碑」等を揮毫。
大正13年(1924・53歳)
 東京代々木に居を構え、書学院の看板をかかげる。『余清斎帖』発行のかたわら『昭代法帖』『鳴鶴先生楷法字彙』の編集に着手する。
大正15年(1926・55歳)
 2月、台湾各地を遊歴し4月帰京。9月、朝鮮にわたり、斎藤実総督の好意によって、京城などの各地を巡り古名跡をあさる。11月帰国。
昭和2年(1927・56歳)
 『書道沿革一覧』乾坤を刊行する。この年から郷里の信濃毎日新聞社の美術展の書の審査を担当して昭和13年まで続ける。
昭和5年(1930・59歳)
 東京渋谷区代々木南山谷に書学院を建設。平凡社発行『書道全集』に執筆する。「秋南先生教思之碑」揮毫。雄山閣より『天来習作帖』発行。『朝鮮書道菁華』を編集刊行する。初秋の頃、犬養木堂翁が書学院を訪れ、代々木練兵場を散策中に柳井寒泉氏が十六ミリに撮影する。
昭和6年(1931・60歳)
 雑誌『書道春秋』『実用書道』発刊。『書道鑑識要覧』を刊行、『修正古法帖選』の刊行を開始する。
昭和7年(1932・61歳)
 東京美術学校(後の東京芸術大学)師範科、習字科の講師となる。鎌倉の書学院建設に着手。『鳴鶴先生楷法字彙』を刊行。
昭和9年(1934・63歳)
 「浜口雄幸墓銘」を揮毫する。このころからおもに羊毛筆を使用、新たな用筆法を用いる。
昭和10年(1935・64歳)
 再度台湾遊歴。鎌倉の書学院の敷地に書庫、華蔵院を建設する。
昭和11年(1936・65歳)
 8月、出雲・隠岐に遊歴し、「黒木御所遺趾」を揮毫する。11月大連に渡り12月帰京する。
昭和12年(1937・66歳)
 1月「大日本書道院」を創立して、総務長となる。6月、帝国芸術院会員に推挙される。雑誌『書勢』刊行。8月、第一回大日本書道院展を上野公園美術館で開催し、単独審査をする。11月「大本営陸軍部」の門標を揮毫。
昭和13年(1938・67歳)
 1月「慰霊之碑」および『戊寅帖』所収の作品を揮毫。2月帝大病院に入院し、手術を待つ間に大判色紙十数枚を揮毫。4月末退院。万国博覧会顧問、および準備委員を嘱託される。7月、大日本書道院第二回展を開催。8月末再入院。11月以降は鎌倉に移り、静養のかたわら、「天来老人」または「画沙老人」と署名した二十数枚の額幅作品を特製ベッド上で揮毫。また、漢字整理の事業をすすめる。11月「放送会館」の題字を揮毫する。11月『天来翁書話』刊行、12月『天来先生戊寅帖』刊行される。
昭和14年(1939・68歳)
 1月4日没。法号、書学院殿大誉万象居士。

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