【解説】 旅の周辺(19)島根県出雲市 出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ)の起源 壮大な国譲り神話

  

  『古事記』が語るところに拠れば、そのころ、地上「葦原中国(あしはらのなかつくに)」は大国主神(オホクニヌシノカミ)が治めていた。その大国主神に、天上界 高天原(たかまのはら)の天照大神(アマテラスオホミカミ)は、地上界は御子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)に治めさせる旨を通告して来た。大国主神一族は、結局はそれを受容れて、地上の覇権を天孫に譲ったというのがいわゆる「国譲り」と呼ばれる神話である。大国主神は国を譲り渡す際に、一つだけ条件を付けた。

 「此の葦原の中つ国は、命の隋(まにま)に既に献らむ。唯だ僕(あ)が住居(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす登陀流(とだる) 天の御巣如(みすな)して、底津石根(そこついはね)に宮柱布斗斯理(みやばしらふとしり)、高天の原に氷木多迦斯理(ひぎたかしり)て治め賜はば、僕(あ)は百足らず八十くま手(やそくまで)に隠りて侍ひなむ。亦僕(あ)が子等(こども)、百八十神(ももやそがみ)は、即ち八重事代主(ヤヘコトシロヌシ)の神、神の御尾前(みをさき)と為(な)りて仕へ奉らば、違(たが)ふ神は非じ。
  訳:この葦原の中つ国は、お言葉どおりにことごとく天つ神に奉りましょう。ただ、わが住み処(か)だけは、天つ神の御子が、代々に日継ぎし、お住まいになる、ひときわ高くそびえて日に輝く天の大殿と同じように、土の底なる磐根に届くまで宮柱をしつかりと掘り据え、高天原にも届くほどに高々と氷木を立てて治め賜えば、吾は百に足らない八十のその一つの隅に籠り鎮まっておりましょう。また、わが子供、百八十にもあまる神々は、八重事代主(ヤヘコトシロヌシ)が神々の先立ちとなってお仕えすれば、背く神など誰も出ますまい。」(『古事記』上、葦原中国の平定、大国主神の国譲り)

  このように、服属して地上界の支配権を譲るのと引替えに、大国主神は壮大な宮殿の主として祀られることになったとあり、それが出雲大社であるという。「底津石根(そこついはね)に宮柱布斗斯理(みやばしらふとしり)、高天の原に氷木多迦斯理(ひぎたかしり)て」というこの記述は、この神殿が当時考えられる限りの壮大無比な建造物であったことを示すであろう。

  現在の出雲大社の本殿は、高さが8丈(約24m)あるが、中世においては30mを越える高さであったことが分かっている。古代においてはさらに高かったと言われ、出雲大社 社伝には太古に32丈(約96m)、のち16丈(約48m)と伝わる。
  建久元年(1190)の春、諸国遍歴の旅に出た寂蓮法師(藤原定長)は、出雲の地を訪れ、大社に詣でた折に、その社殿の威容に感嘆して歌を残している。

   やはらぐる光や空に満ちぬらん 雲に分け入る千木(ちぎ)のかたそぎ
     この歌は、出雲の大社に詣でて見侍りければ、あまぐもたなびく山の中まで
     かたそぎのみえけるなん、このよのことともおぼえざりけるによめると云々
                               (夫木抄16095)

大社の印象を「この世の事とも覚えざりける」と記しているのは、その高さが寂蓮の目には現実離れして見えるほどの規模であったことを物語るであろう。
  それでは実際の大きさはどれほどのものであったのだろう。これを遡って、天禄元年(970)に源為憲が著した『口遊(くちずさみ)』という書物がある。『口遊』とは当時の社会の常識をわかりやすく、暗誦しやすいように語呂を合わせてまとめたものである。ここに、

  「雲太、和二、京三。〈謂大屋誦。〉今案、雲太謂出雲国城築明神々殿。〈在出雲郡。〉和二謂大和国東大寺大仏殿。〈在添上郡。〉京三謂大極殿八省。[雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)。〈大屋を謂ひて誦す。〉今案ずるに、雲太とは出雲の国 城築(きづき)明神の神殿を謂ふ。〈出雲の郡に在り。〉和二とは大和の国 東大寺大仏殿を謂ふ。〈添上の郡に在り。〉京三とは大極殿八省を謂ふ。]」

という箇所がある。これは当時の大型建造物の大きさを比較して、出雲大社の本殿が第一位、奈良の東大寺大仏殿が二位、そして京都の御所が三位という意味である。建築家福山敏男氏は、これは殿屋の棟高を比較したものであると指摘する。とすれば、出雲大社の本殿は、高さ15丈(約45m)といわれた東大寺大仏殿を凌駕するものであったことになる。このことから、社伝に言う高さ16丈という説は信憑性のあるものなのである。


 雲太・和二・京三シルエット
  出雲大社本殿:福山敏男監修・大林組設計、
  東大寺大仏殿:山本栄吾「東大寺創建大仏殿復元私考」日本建築学会論文報告書69号、  平安宮大極殿:高橋康夫監修設計図面による
(古代出雲文化展 http://inoues.net/study/bunkaten.html

  また、出雲の国司帥 中納言藤原家保(鳥羽天皇の近臣)の日記に、「国日記」(出雲国造家 の記録と考えられている)なる書物のことが記されている。その「国日記」には天仁3年(1110)に、大社近くの海岸に流れついた大木100本をもって本殿を造営したとの記事があった。その時に材木の一本は因幡国に漂着したが、その木は長さ15丈(45m)、直径1丈5尺(約4.5m)あったと、記録されていたという。これが完全には正確な数値ではないとしても、出雲大社本殿の造営には、かなりの巨木が用いられたことが確からしく推定される。

  この巨大建築の伝説を証明するものが平成12年(2000)の出雲大社境内遺跡の発掘調査で明らかになった。平安後期から鎌倉期にかけての本殿、まさに寂蓮が感嘆して仰いだ神殿の柱、九本柱の中央に位置する心の御柱(しんのみはしら)と、南東にある側柱(がわばしら)の根元部分(柱根)が出土したのである。心の御柱と側柱とは、平安期の地層から出土した。楕円形の杉材が三本束ねられ、これまでの計測では、心の御柱に使われていた丸太一本の最大径は上層部で1.2m、側柱は0.85mあった。地中部分を想定すると心の御柱は最大3.2m前後であるという(現在の出雲大社本殿柱は0.9mであり、その3倍以上であることがわかる)。この柱を金属で垂直につなぐ工法で巨大建築がなされていたとされる。柱の規模と建造法から社殿には相当の高度があったことが推定され、この発見は、寂蓮の目には現実離れして見えた神殿の高さ、社伝に伝える十六丈(約48m)という伝承を裏付けることとなった。


       出雲大社本殿想像図
       (古代出雲大社 http://www.wacom-it.co.jp/~oka/iwl/kingdom/tour4.html

  しかし、そのような高層の建造物が、はたして古代にありえたのであろうか。また、そのような並はずれて高い神殿が出雲にだけ(のように現在は知られている)作られたのはなぜなのだろう。
  わが国が、いつどのようにして一つの日本になったのか、古代の謎は深いが、日本の神話には皇室の祖とされる高天の原の神々と出雲の神々の二つの系統があることは周知の事実である。一方の神話文化がもう一方に領有地の支配権を譲り、神殿に鎮座する神になったというのが『古事記』の言う平和的な「国譲り」であるが、当時も類のないこの出雲の大規模神殿は、もちろん制圧した高天の原側が認知したものである。というより、実際は高天の原側が建造したものであろう。はたして出雲の「国譲り」の実態とはどういうものであったのか。
  文化を持ち、豊かに治まっている国に、領地をただ明け渡せとだけ言ってそのとおりになるとは思えない。高天の原は当然武力を背景に圧力をかけたのであろう。大和朝廷(高天の原側)の正史とされる『日本書紀』には、この古代出雲が高天の原に属した際の記述はさらに少ないのである(その代りに、高天の原が出雲側に供した神殿(出雲大社)が豪壮であることや大国主神側に示した厚遇の条件が具体的に記述されている)。『古事記』が語る不自然な成りゆきは、支配者側の筆が覆おうとしても覆いきれない過去があったことを露呈し、出雲の委譲について、後世の様々な空想をかき立てることとなった。誰にも想像されるものがあろう。壮大無比の神殿は、出雲の一族のための、高天の原が当時出来うる限りの力を尽くした鎮魂のしるしだったのではないか。

  平成3年(2015)、天皇皇后両陛下は御即位後初めて出雲大社を御親拝なされた。その折に、当代一の歌人であられる皇后陛下の詠まれた御歌は、

   国譲り 祀られましし大神の 奇(く)しき御業(みわざ)を偲(しの)びて止まず

  偲び止まず、想像も尽きない古代史の謎が解き明かされる時が早く訪れるように、関係諸方面の研究の進展が待たれる。