日本はもともと一神教の国ではありません。八百万の神とともに生き、排他的な信仰は民情に合いませんでしたから、神も仏も併せ拝むことに抵抗を感じる人はほとんど無かったのです。実は僧侶が神職を兼ねるという神社も珍しくありませんでした。明治新政府は王政復古後の具体的な行政方法の一つとして祭政一致を目指し、神社を国家統合の機関にしようとしました。明治元年(1868)3月13日、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が発布されます。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれ、神社が国民の戸籍を扱う国家機関に加えられたのです。これを始めとして、明治3年(1870)の「大教宣布」など、神仏分離に関する数々の布告がなされます。権現、明神、菩薩などの仏教的な神号が廃止されました。神社から本地の仏像が取り除かれ、仏具を神社に置くことなどが禁止されました。明治4年(1871)には「寺領上知(じょうち)の令」が発布され、寺院は領地のすべてを失いました。古い大寺ほど徳川家を始めとする諸大名から寄進を受けており、旧支配体制と縁が深かったのです。しかしこの法令発布以来、全国の由緒ある寺が一気に経済的基盤を失い、寺は内部から崩壊してゆきました。伝来の美術品の大量の流失が始まったのもこの時期です。このような仏教界自身の退廃に加えて、江戸幕府の政策で事実上僧侶の下に置かれていた神官の積年の恨みも働いて、釈尊の教えそのものを破壊の標的とする激しい「廃仏毀釈」の動きに繋がってゆきました。明治3年から4年頃を頂点として、異常で過激な宗教騷動は世の中を騒がせました。
最初の暴挙は比叡山の麓、坂本の日吉山王社の事件です。明治元年(1868)4月1日(1868)、日吉社へ120人あまりの暴徒が押し寄せ、神殿に侵入し、併せ祀られていた仏像、仏具、経典などを破壊しました。また、奈良の興福寺でも僧侶のすべてが神主になり、その手で仏像や伽藍を破壊しました。時流に乗らなければ自分自身の身も危ういと考えて卑怯に立ちまわる似而非宗教者はいたのです。五重塔も焼かれようとしたのを、延焼をおそれる近隣の住民の反対で中止されたといいます。これらの動きは全国に広がり、藩ごとの差配で強行されました。ことに苛烈な「廃仏毀釈」が行われた地域は、薩摩、土佐、平戸、延岡、苗木、富山、松本の各藩、また隠岐、佐渡なども知られます。特に明治維新の中核をなした藩では民衆の参加も狂信的で、仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典などの破壊は凄まじかったといいます。この結果、今でも九州には有力な大寺はありません。富山藩では領内にあった1635寺を6寺にまでしようとする凄まじいものでした。
しかし、明治政権はまだ不安定なものでした。徳川300年を通して寺院が民衆に持っていた影響力に助けを借りる必要もあったので、行きすぎを戒めるようにもなり、次第に「廃仏毀釈」の狂騷は鎮静しました。しかし、この僅か数年の間に、全国にあった寺のおよそ半数にものぼる寺が破却、廃寺されたといいます。隠岐でも明治2年4月、王政一新県知事として九州久留米から真木直人が赴任すると、徹底的な「廃仏毀釈」が行われました。隠岐全島におよそ100あまりあった寺院の多くは跡形もなく廃絶するに至りました。この時にかつて後鳥羽上皇の行在所が置かれた源福寺も燒け落ちたのです。僧侶は皆還俗するかあるいは追放されるに至りました。隠岐に限らず、この時期の狂乱の傷跡は長く回復されることがありませんでした。
[村上家]
今も隠岐に暮らす村上家は48代を重ねる名門旧家です。起源は村上天皇の末裔であるとか瀬戸内海の村上水軍の流れを汲むなどと諸説がありますが、さだかではありません。いわゆる国人領主として隠岐に繁栄し、承久の乱の頃は公文(くもん:村役人の代表)の役を負い、幕府からの命は「上皇を逃がしてはならない、上皇に不自由をさせてはならない」というものでした。実際は身の回りのよろず御世話係です。御茶を好まれた上皇は「たびかがみ」に小琴が記しているように、たびたび村上家を訪れて御茶を喫するのを楽しみにされていたといいます。千利休[せんのりきゅう:大永2〜天正19年(1522〜1591)]が生きた時代を思い浮かべれば分かるように、茶の湯が世にもてはやされるようになるのはこれより300年も後になってからのことです。鎌倉のこの時期に、都を遠く離れた隠岐の民家に御茶があったというのは特筆すべきことです。あるいは後鳥羽上皇によってはじめてもたらされたのだったかも知れませんが、これが習慣として続けられたことは、村上家の財力と文化の力をうかがわせる事実でしょう。
村上家は本来流人を管理する立場でしたが、当時の当主は失意の上皇を慰め、心こめて仕えました。「たびかがみ」にも“「上皇の御ため、あらむ限りの真心をささげ」た”とあるのは、隠岐で詳しい伝えを聞いたのでしょう。村上氏は忠勤を励んで、上皇薨去の後はそのあとも丁重に弔い、今日に至るまで後鳥羽上皇の御墓守を務め続けています。
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