みやと探す・作品に書きたい四季の言葉
連載
「泉鏡花集」を開くみや
1 さらに高く
頭の上はかへでの蕾[つぼみ]
木の上は月
月の上は天使の靴鋲が落ちて
燦然と輝く星
(「さらに高く」エマソン 斉藤光 訳)
12月も半ばを過ぎ、街並みはクリスマスの装いで賑やかです。夕暮れ、クリスマスツリーのような街路樹に点滅する灯りや流れてくる聖歌の響きに、キリスト教徒でなくとも、ふと厳かな感情がよぎるとすれば、それは信仰の力ではなく、実は「年末」というものに際したある種敬虔な感情なのではないかと思うようになりました。
時間を循環するものと捉えていた古代の日本人は、新年になることを「年(が)たちかへる」と言い慣らわし、また新しく振り出しに戻ったと考えました。しかし、同じ時間をふたたびやり直せるものでは勿論ありません。人は時を重ねて老いてゆきます。いわば螺旋のコースを辿るように、年々歳々同じ季節の姿を眺めて過ごしながら、年の一巡ごとに生き物はひと刻みずつ確実に命の終わりに近づいてゆくものと意識されてきたのです。
かつては大晦日の夜を年取りの晩と呼びました。陰暦時代の習慣では、個々の誕生日ではなく年が変わって暦が新しくなる時に、皆が一斉に一つ年を取るのでした。たとえば極端な場合は、12月の末日に生まれた人は、当時は0歳を年齢とする習慣はないので、生まれたその日が1歳、一夜明ければ生後二日で2歳と数えたのです。暦の更新が人の加齢に直接関わるのでしたから、その伝統の上で、年末に寿命を思い、命そのものに思いを致すのは自然なことと言えましょう。
また、暦に従って暮らす中国渡来の生活感覚からしても、歳末は大きなけじめの時期で、やがて来る新年を控えて片づけられる仕事を片づけ、ものごとに決着をつけるのに急ぎました。ここまでのさまざまが終息する時期であると考えられ、何につけても「終わり」が強く意識されたのです。
そのように考えると、今日でも、この月日のひと巡りが終わる歳末には、いわゆる年末年始の準備に伴う生活上の繁忙に加えて、知らず知らずにも命の残りを思ってのせわしなさが添っているような気がします。そして、命のことを思う時、人は敬虔な気持ちになるのでしょう。クリスマスは丁度そんな気持ちが用意される頃にやってきます。
「さらに高く」は賛美歌・聖歌の類ではなく、いわゆるクリスマス・ソングではありませんが、クリスマスを迎える頃の幾分改まった気分や歳末の引き締まった空気にしっくり馴染みます。アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803.5.25〜1882.4/27)の詩です。エマーソンはハーバード大学を出てすぐに教師になり、二十代の始めまで務めましたが、後にハーバード神学校に入り直して牧師になった人です。詩はいったいに謙虚な姿勢と敬虔な情熱を湛えて、この人の経歴を思い起こさせます。
かえでの木の上には月、月の上には星。「さらに高く」という表題は、星のさらに上にあるものは何かを問い、答えを促しています。月の上、星より高いところ、つまり、思いつく限りの一番高いところにあるものとは何でしょう。心に神を抱く人は、きっとそれを神と答えるのでしょう。神をそのように口にかけることの出来ない私は、それは「理想」であろうと思います。「運命」や「宿命」がある時は神に似たものであるように、「理想」もまた、人にとっては時に神のようなものであると言ってよいかも知れません。
2 過ぎゆくもの
時の流れの速さを思うのは年末の常ですが、『徒然草』の吉田兼好は例によっての分析癖で、彼の理解による時間の推移というものを説明しています。
木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下よりきざしつる春に
堪へずして、落つるなり。迎ふる気、下にまうけたる故[ゆゑ]に、待ち
取るついで、甚だ速し。(『徒然草』155段)
秋が行き、木々が葉を落とす、落葉のさまです。それはすでに木々の枝の奥底で春の新しい芽吹きが始まっており、それに押されて表層の古い葉は落ちるのだと言うのです。次の支度が出来ているので、季節の推移は実にスムースに速いのであると、兼好は述べています。移り変わるものを、兼好はおしなべてこのように感じ取っていたようです。一つのことが終わって次がやおら始まるのではなく、次が準備されたからこそ、これまでのものが終わるのだという見方です。時間を循環するものと捉える伝統的な考えに沿った季節推移の論で、特に新しいものではありませんが、具体的で説得力があります。そしてここには、物事の終わりと始まりについて、ひいては生き物の死と誕生にも繋がる兼好の哲学がほの見えます。
去年の今頃、みやはまだ幼く、手も小さく力も弱かったので、大きな本を見たがる時にはページを家族が支えてやらなければならないことも多かったのでした。小刻みに眠り、初めてのこと、たとえばクリスマスケーキを切るだの、居間にクリスマスローズの鉢を置くだのに、いちいち大騒ぎしてあたりを走り回っていたのでした。掌に乗るほどのささやかな仔猫が体重4キロの現在のみやに育ったこの一年は、生き物の盛んな成長を目のあたりにする一年でありました。猫なりの乳幼児期があり、子ども時代があり、仕ぐさにいかにも子どもらしい初々しい心の動きが見えてただ愛らしかったり、若い生き物の真面目さに感動することもありました。しかしまた、みやの成長の上には、もう帰らない時の流れがありありと表れているのです。
3 新しいもの
こうしてまた一年も過ぎてゆこうとする今、新しいもののお話をひとつ。今月の初めにもう一人家族が増えました。生後約2ヶ月の仔猫で、御覧の通り、何処にでもいるユニクロのセーターを着たような縞柄の男の子です。去年の今にはまだどこにも無かった命です。
東京都内に本部がある里親の会からの紹介で、縁あって家の子になりました。保護されたのが茨城県だったということから、ひたち(常陸)と名付けました。人なつこく陽気な性格で、初めての日から(その日はみやも凝視する中で)、もともとこの家で生まれた子のようにのびのびと人にまつわり、家中を駆け回っています。
先住猫が新参を厳しく撃退する話はよく聞き、ひどい時は小さい方が大怪我をしたりします。また、割合気の強い先住の猫が、かえって気を病んでものを食べなくなるとか家出をするとかいう例も珍しくないといいます。一人っ子のお姫様みや、何より猫との暮らしを経験したことがない猫自覚のないみやが仔猫を受け容れるかどうか、それだけが心配でした。けれども、案ずるより産むが易し、時間とともにうち解け、今はみやにとってもこの子が居ることが当たり前の毎日になりました。
みやもこのくらいの頃はそうでしたが、小さな体で大きな声を出して泣き、旺盛に遊び、電池が切れたようにいきなりコトンと寝入ってしまいます。そして起きてはまた盛んに活動する様子を見ていると、ひたちに流れている時間は私たちのそれとは違うのだろうと思われて来ます。ひたちの一日は睡眠一回分の周期がそれなのかも知れず、私たちの一日24時間のうちに、実は何日分も過ごしているような感じさえするのです。
猫の寿命を数えることは難しいのですが、家猫は最近では獣医の助けを借りて20年あまりも生きる例が珍しくなくなりました(一方、野良猫の平均寿命は3年と言われて、もう十数年変わりがありません)。御近所でも数ヶ月前に亡くなったお向かいの猫は24歳でした。亡くなる直前まで、深夜の人通りが絶えた静かな時間帯に御家族と散歩を楽しんでいましたから、めでたい大往生と言ってよいでしょう。
家猫の寿命がおおむねヒトの四分の一であるとすると、単純に見ればヒトの四倍の速さで一生が進行していると言ってよいかもしれません。事実、ここに来て一週間でひたちはむくむく大きくなり、ピヨピヨした赤ちゃんの気配はたちまち薄くなりました。来た当初は階段一段の高さをゆっくり上がり下りしていたのが、今は頭を下に真っ逆さまに勢いよく二階から駆け下りて来ます。みやを追って高いところにも飛び上がるようになりました。みやが退避場所にしているピアノの鍵盤の高さに飛び上がれるようになるのも間もないことでしょう。成長と思える間はよいのですが、
かくも速くひたちの一生が過ぎてゆくことには、何とないやるせなさを禁じ得ません。
もっとも時間の流れは、物理的に同じ長さを過ごしていてさえ、人それぞれのものではありますけれど。
君、時といふものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走る
ものなのだよ。
シェークスピア(『お気に召すまま』より)
年末らしい寒さも加わり、今年の残りの日数もいよいよわずかになってまいりました。皆さまどうぞよいお年をお迎え下さい。
【文例】
[漢文]
・独坐 唐 寒山
独坐常怱怱
情懐何悠悠
山腰雲漫漫
谷口風** *「風」偏に「叟」字
猿来樹嫋嫋
鳥入林啾啾
時催鬢颯颯
歳尽老惆惆
独坐[どくざ]して常に怱怱[そうそう]
情懐[じやうくわい]何ぞ悠悠
山腰[さんえう]雲は漫漫
谷口[こくこう]風は**[しうしう]
猿来[きた]りて樹[き]嫋嫋[でうでう]
鳥入りて林啾啾[しうしう]
時に催して鬢颯颯[さつさつ]
歳尽きて老惆惆[ちうちう]
・寒流帯月澄如鏡
夕吹和霜利似刀
寒流[かんりう]月を帯[お]びて澄めること鏡のごとし。
夕吹[せきすい]霜に和して利[と]きこと刀に似たり。
白居易『和漢朗詠集』359
・風雲易向人前暮
歳月難従老底還
風雲は人の前に向ひて暮れやすし。
歳月は老いの底より還[か]へりがたし。
良春道『和漢朗詠集』360
[和歌]
・昨日といひ今日とくらしてあすか川
流れてはやき月日なりけり
春道列樹『古今和歌集』341
・ゆく年のをしくもあるかなます鏡
見る影さへに暮れぬと思へば
紀貫之『古今和歌集』342
・あらたまの年立ちいそぎする頃は
ゆめものどかにむすばざりけり
阪正臣『手ならひの種』一
・いまはとて年もくるゝをいそぐらむ
煤はく音のきこゑそめたる
阪正臣『時時[よりより]集』上
・ながれゆく月日は水に似たりけり
身の老まさるかげもみえつゝ
阪正臣『樅屋歌稿』上
・とりかへすすべこそなけれくれぎはに
なりて年年年ををしめど
阪正臣『樅屋歌稿』上
・いたづらにくらしてけりと此[この]年も
去年[こぞ]にかはらぬ悔[くい]をするかな
阪正臣『正臣詠草』一
・かくばかり惜[を]しむ心としらぬ日の
いりかたいそぐとしのくれかな
比田井小琴『をごとのちり』
[散文]
・冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉[もみぢ]の散りとどまりて、霜いと白うおける朝[あした]、遣水[やりみづ]より烟[けぶり]のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の、寒けく澄める廿日[はつか]あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。
『徒然草』19段
・年月へても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しといへることなれば、さはいへど、其のきはばかりは覺えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。からはけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかりまうでつゝ見れば、ほどなく 卒都姿も苔むし、木の葉ふりう楽しいづみて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
『徒然草』30段
・木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下よりきざしつはるに堪へずして、落つるなり。迎ふる気、下にまうけたる故[ゆゑ]に、待ち取るついで、甚だ速し。
『徒然草』155段
[近現代詩・訳詞]
・君、時といふものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。
シェークスピア『お気に召すまま』より
・さらに高く エマソン 斉藤光 訳
頭の上はかへでの蕾[つぼみ]
木の上は月
月の上は天使の靴鋲が落ちて
燦然と輝く星
・あまつましみず流れきて 賛美歌
1 あまつましみず 流れきて
あまねく世をぞ うるほせる
ながくかはきし わがたましひも
くみて命に かへりけり
2 あまつましみず 飲むままに
かはきを知らぬ 身となりぬ
つきぬめぐみは こころのうちに
泉となりて 湧きあふる
3 あまつましみず うけずして
つみに枯れたる ひとくさの
さかえの花は いかで咲くべき
そそげ命の ましみずを
・神ともにいまして 賛美歌
1 神ともにいまして ゆく道をまもり
あめの御糧[みかて]もて ちからをあたへませ
また会ふ日まで また会ふ日まで
神のまもり 汝が身を離れざれ
2 荒野[あれの]をゆくときも 嵐吹くときも
ゆくてをしめして たえずみちびきませ
また会ふ日まで また会ふ日まで
神のまもり 汝[な]が身を離れざれ
3 御門[みかど]に入る日まで いつくしみひろき
みつばさのかげに たえずはぐくみませ
また会ふ日まで また会ふ日まで
神のまもり 汝[な]が身を離れざれ
・静けき夕べの調べによせて 賛美歌
1 静けき夕[ゆふ]べの 調べによせて
うたはせたまへ 父なる神よ
2 日ごとわがなす あいのわざをも
ひとに知らさず かくしたまへや
3 神よ この世の旅路終はらば
わがふるさとに いこはせたまえ
ひたちの姿に一年を遡ってみやの幼時をあれこれ思い出しますが、こう較べると、やはりみやの読書好きは明らかな個性と分かります。ひたちも机辺で勉強の友をしていますが、甘えて遊びたい一心で、かけても本など読む気配はありません。打ち明ければ、この原稿を書くにもこんなに時間がかかったことはありません。横にいるひたちがマウスのコードにじゃれつき、電源コードに絡まって抜いてしまう。モニタが大きく変わるたびに画面に飛びつこうとキーボード上に飛び乗るので、こちらは打ち直しを繰り返すことになります。早く家業に馴れてもらいたいものです。