1963年3月に、ミーチュウ画廊から多くの市民が南谷の新作を見たがっているとの書簡が届き、南谷はますます再渡米の意志を強めていった。
1963年9月下旬、南谷は意を決し、ミーチュウ画廊での2回目の個展のため、ニューヨークへ飛び立った。サン・フランシスコを経由して、ニューヨークへは9月25日に到着。マンハッタンのチェルシー地区、7番街と8番街の間、西23丁目222番のチェルシーホテル(Chelsea Hotel)に滞在した。チェルシーホテルは有名な芸術家や作家、ミュージシャンが滞在した伝説的なホテルであった(注1)。
南谷は10月2日~26日のミーチュウ画廊での個展に向けて、準備に没頭し、当地の知人たちに連絡も取っていない。ジャパン・ソサエティ協会長オーバートン氏と井上氏とだけに到着と個展開催の挨拶をしている。
ミーチュウ画廊での2回目の個展は高評価を得た。直前の抒情的な作風から一転して、再度、奇妙な作用をする「不思議な墨」を用いて、大胆で力強い線と強固な構築力を備えた自信に満ちた作品である。1961年から伝統的な書に見られる筆順のようなものが取り入れられている。筆順はあっても文字ではない。文字を書かない書の精髄そのものの追及といえるであろう。
作品は、「61-18、61-25、61-26、63-2-1、63-4,63-8、63-10,63-14-3、63-19」などである。このうち、「63-14-3」はMoMAが購入、「63-10」は京都近代美術館、「63-19」はイエール大学が購入、その他、個人が購入した作品もある(南谷HPの美術館 参照)。
エリーゼ・グリリの仲介を経て、11月6日~11月28日オーストラリア巡回「現代日本の書」(メルボルン・オーストラリア近代美術館、パース・キャンベラ・シドニーなど8都市巡回)にも出品し、南谷の作品は海外でも先進的な芸術創造として受容され、評価されていった。
南谷の再渡米のもう一つの目的は、欧米人に東洋独自の芸術たる書道の正しい理解を深めることであった。
二度の世界大戦を経て、西洋では伝統的な文化の価値が崩壊し不安と虚無が蔓延した。人々は心のよりどころを求めて、異質な東洋の宗教思想に魅了されて、欧米では禅がブームとなった。主観-客観の対立を超えた(あるいは対立以前の)純粋経験に基づく思想は、対立と分裂に陥る二元論的思考の袋小路を打開するものとして、シュールレアリスムの自動書記や、画家の描く行為のみが確実な芸術創造である(アクション・ペインティング)といった思潮と、たやすく結びついた。東洋の書道も、そのような禅ブームに乗って、もてはやされた一面がある。筆に墨をつけ、無意識に筆を振り回して墨を飛ばす。無心になって筆が動き、書が書かれる。私が書を書くのでなく、私が筆と一体になって、筆そのものが書を書くことによって素晴らしい書が生まれてくる。そうした無自覚な墨痕が私の存在を表す。こうした禅ブームによって搔き立てられた書の捉え方がいかに書を誤解させているか。南谷は怒りを潜めて正そうとする。東洋の書は3000年の歴史を持つ。書の正しい理解には確実な書道史の知識が求められる。南谷は書道の歴史の英文をつづり、欧米人にも分かりやすく、正確な書の歴史と鑑賞の仕方の知識を与えようと努めたのである。
南谷は個展終了後、ジャパン・ソサエティの紹介や先方からの依頼で、ニューヨーク周辺の大学機関等で書道史の講演を行っている。
最初は、10月末、ニュージャージー州のニューブランズウィックにある州立大学のラトガース大学(Rutgers University)の附属カレッジの芸術科で行った(注2)。午後3時からの講演で、書道史を滔々と語ったが途中で夕食の鐘(午後5時)が鳴り、大学の教授が残念そうに「食事時間に遅れると学生たちが夕食を食べはぐれる」と南谷に告げたので中止した。次からは、2時間の講演で収めるには、中国書道史は唐代まで、日本の書道と併せてスライドも約30枚にカットする、という苦い教訓を得た。
2回目の講演は11月3日、ペンシルベニア州ベスへレムのリーハイ大学(Lehigh University)(注3)で夕食後の午後8時から行った。聴衆は教員や学生だけでなく、全市民に放送で呼びかけたので美術愛好家も多く集まった。講演は、ミーチュウ画廊のオーヤングと南谷が登壇し、聴衆との質疑応答から始まった。突拍子もない質問や書についての誤った先入観が披歴された後、渡米前に南谷が撮りためていた書家(上田桑鳩・手島右卿・桑原翠邦・西川寧・熊谷恒子等)の書いている8ミリフィルム(天来書院発行のDVD『書・二十世紀の巨匠たち』に掲載)やスライドを使って、中国と日本の正確な書道史を説明した。講演は2時間で終了したが、熱心な聴衆は残って深夜まで質問を重ねた。3日から5日までの講演は大成功で、美術学科主任教授のフランシス・クヮーク(Francis Quirk)からの感謝の手紙を受け取った。
3回目は11月15日、ニューヨーク市立大学ブルックリン校(Brooklyn College of The City University of New York)(注4)の芸術科の教室で行った。画学生100人余りに囲まれて、芸術を目指す若者たちの熱心な質問に、南谷は講演原稿を離れて打ち解けて語り合った。南谷にとっても忘れ難いひとときであった。抽象画家として名声のある芸術科主任教授のアド・ラインハートは、感謝の手紙に、「ブルックリン大学でのあなたの講演は大成功でした。あなたのプログラムはこの大学で、過去十数年以上の間で最も刺激的な出来事でした。学生たちは今後長い間、これについて語り合うことでしょう」と絶賛した(南谷レポートVol.8 1963年11月22日(金)に紹介している)。
4回目、翌日の午後(11月16日)ニューヨーク市マンハッタンのコロンビア大学(Columbia University in the City of New York) (注5)のケントホールで講演した。中国・日本学部の教員と学生対象であった。彼らは明・清の書画に関して知識は潤沢であったが、漢から唐の古典期の書に関してはほとんど空白であった。また書法についても日本で研究された古典的な用筆法や芸術としての覚醒に関しては全く紹介されていなかった。南谷は書が東洋文化の基調のひとつであり、人々の生活に根ざしたものであることを強調した。これまでの映像の他に、「国際文化会館」で行った「西洋人対象の書道教室」の記録映画も上映した。これを見た日本文学研究家のドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene)教授は、閉会の辞で、西欧人が素晴らしい書の作品を書くことができるのを知って感銘を受けたと語った。
次の講演の準備のため、チェルシーホテルに宿泊していた11月22日(日本時間23日)、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)がテキサス州ダラスで狙撃され死亡した。全米に衝撃が走り、混乱と悲しみに包まれた。南谷は数日間ラジオにかじりついて、事件の詳細を知ることに務めた。狙撃犯とされた男はダラス警察署の通路で市民に射殺された。ケネディの葬式によって、予定されていたジャパン・ソサエティ主催の南谷の講演が1週間延期され、12月1日となった(南谷レポートVol.8 1963年11月22日(金)に南谷の動向を紹介している)。
大学での講演は、12月5日ワシントンD.Cメリーランド州のメリーランド大学(University of Maryland 1856年創立)(注6)の研究所、そして12月中旬にニューヨーク州ウエストチェスター郡のサラ・ローレンス大学(Sarah Lawrence College 講演当時は女子大)(注7)で行った。そして、1963年末に、日本に帰国した。
今回の渡米中に、南谷は、西ドイツのシャールシュミット・リヒターからの欧州ドイツの個展への招待、友人の安部展也(注8)によるイタリアへの招待、フランスのタピエとの親交、さらにイギリスの老大家の画家ヴィクター・パスモア(Victor Pasmore)(注9)からの紹介でイギリスでの個展等、アメリカからヨーロッパへとその活動の舞台を拡大していく手掛かりを得ている。