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比田井南谷レポートレポート   Vol.15 南谷アメリカへ行く(1)

Vol.15 南谷アメリカへ行く(1)

南谷アメリカへ行く

南谷の第1回目の渡米は、1959(昭和34)年11月26日から1961(昭和36)年4月までの1年5か月にわたっている。日本で知己を得たアメリカの芸術家、オハンロン夫妻の紹介で、サンフランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校Rudolph Schaeffer School of Design(*1)から中国と日本の書道の講師として招聘されたものであった。渡米に当って、南谷は書芸術の正確な理解と鑑賞の仕方を教えるため、古法帖千冊、拓本数十点を携えていた。海外旅行の自由化(1964 年)の前で、旅行目的も持ち出せるドルも制限され、ビザの発行も厳格であった。申請書も煩雑で銀行の残高証明書も必要で、手荷物も制限されていた。

アメリカ本土への直行便はなく、羽田からハワイ経由でサンフランシスコに飛行した。サンフランシスコでは、アン・オハンロンの友人のフィリップ・ミュートローPhilippe Mutrux 氏の自宅の1階に住まいを借り、地下にアトリエstudioを手造りした。


アトリエを作る
サンフランシスコ ブロートウェイよりベイ・ブリッジを望む

ルドルフ・シェーファー図案学校

ルドルフ・シェーファー図案学校での授業は、1960(昭和35)年のSpring Semester(春学期、1/30-5/26)において、週1回「東洋の書についての初級クラス」90分10回で、中国および日本の書道史の講義と、漢字の基本と書法(篆書・隷書・楷書・行書・草書)を教えた。授業は好評で、校長のシェーファーの懇意で9月からは「上級クラス」と再び「初級の別クラス」を開講し、週2回の授業となった。また、アン・オハンロンの尽力で、完成したアトリエで芸術家や一般市民に筆や墨の使い方の個人指導を行った。

アトリエの開所パーティには、シェーファー図案学校の教授陣やカリフォルニアの画家たちや教え子たちが集い、賑やかなパーティとなった。南谷は初めて、日本国内を離れて、形式や肩書には関係なく、一人の人間、一人の芸術家として、率直に正直に自分を表現することができた。授業の合間の週末には、サンフランシスコの北西マリン郡のトマレス湾の西岸に位置したインヴァネスInvernessの画家フォード邸に招かれたり、サミュエル・P・テイラー州立公園や太平洋に面したドレイクス湾Drakes Bay(*2)の南岸のボリナスBolinas郊外の海岸で岩の石ずりをとったりした(6月8日)。さらに、シエラネバダ山脈西側斜面のヨセミテ国立公園にある氷河の作用でできたヨセミテ渓谷Yosemite Valleyに足を延ばして、岩肌や氷河の石ずりも試みた。

渡米の前、1954年以降、南谷は「書の芸術的本質は鍛錬された筆線による表現にあるので、用材は単なる媒体にすぎない」との信念で、「筆・墨・紙」といった用材(マチエール)に書の本質があるのではないことを証明するため、キャンバスの油彩、ラッカーボード、筆ではなく竹片やタイヤの切れ端でひっかいた作品、古い拓本を下地にした作品等、挑戦を続けていた。直前のサン・パウロ・ビエンナーレ出品作もその一環であった。アメリカで日本と違った自然に出会って、南谷は原自然のマチエールを試みようとしたのかもしれない。


シェーファー図案学校での授業
ボリナス海岸で拓本採取

ヨセミテ渓谷で拓本採取
ヨセミテ渓谷で、氷河の跡の拓本採取。採取後、ヨセミテ博物館に寄贈。

帰国後。南谷が新聞に寄せた記事を再録する。

1961(昭和36)年6月16日 日本経済新聞

「アメリカの書道生活――決して東洋人に劣らぬ表現――」 比田井南谷

(前略)昭和34年の暮れ、カリフォルニア大学の彫刻の先生夫妻に呼ばれ、私は書道を米国に紹介するため渡米した。オーソドックスな書道を紹介することがおもな目的だったから、約千冊の古碑帖や拓本、手本類を携行し、当市の図案学校で教え、個人指導もした。米国民は何事につけ能率的なことを好む。私も即効的指導法をくふうした。週1回2時間ずつ、10回で1コース終了とし、その間に基本用筆法から始めて楷(かい)・行(ぎょう)・草(そう)・篆(てん)・隷(れい)の各体にわたって実技を教え、手本は漢、魏・六朝はもとより、中国殷代の獣骨文字や鐘鼎文(しょうていぶん)、日本のものでは三筆・三跡から白隠・良寛にまでわたり、まさに宇宙旅行的超スピードともいうべき書道教授である。

「線芸術」として会得

彼らは筆で塗ることは知っているが、書くということを知らないから、それを会得させる基礎訓練がいちばん大切である。しかし、一度これを体得すれば、彼らの書表現の理解は、決して東洋人に劣らないことがわかった。このような速成指導では奥深いところまで習得できるはずはないが、それぞれ彼らなりの受け取り方による純粋な感動で、個性的な作品を作ってくれたことは愉快であった。

わが愛弟子たちは主として指導的立場にある教授や芸術家であったので、理解の早かった点もあるが、その良さは子供の作品に見られるような稚拙味でないことは、帰国後これらを見たこちらの専門書家の等しく認めるところであった。もちろん彼らに文字の意味を教えるひまはなかったので、時には手本を逆さに見て習うというような情景もあったが、それだけに書道を線芸術として純粋に理解させることができた。私の目的は、ただ彼らに東洋趣味を植えつけることではなくて、三千年の歴史を持つ独特な抽象芸術が米国の芸術心に正しく受け入れられるか否かを試みることであったので、これで満足であった。

私は以前から自然石の表面の石ずりをとることを好むくせがあり、かねがね外国でも試みたいと思っていた。たまたま昨年の夏、国立公園ヨセミテ峡谷に遊ぶ機会を得た。巨大な岩山や、氷河の削りあとの続く広大な岩床にどぎもを抜かれたが、いざ石ずりをとってみたら、アメリカの食物の味みたいに大味でちょっとガッカリした。日本と味の種類が違うという感じである。(後略)

*1 ルドルフ・シェーファー図案学校Rudolph Schaeffer School of Design (1924 – 1984)

ルドルフ・シェーファー (1886 – 1988) によって1924年にサンフランシスコで創立された色彩とデザインの美術学校。1960年にはMariposa StreetのPotrero Hillにあった。多くのデザイナーと画家を輩出した。
*2 ドレイクス湾Drakes Bay

スペイン無敵艦隊を破ったフランシス・ドレイク英国海軍提督の名にちなむ。マゼランに続き、史上二番目の世界一周を達成した。カリフォルニアの、この地に上陸したとの言い伝えがある。
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