比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

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一かたまりの光は 少女から離れないであらう。

筋肉のやうに。一かたまりの光は骨片の中に潜んでゐる。

骨片を翳す少女は幸福なるかな。

 

北川冬彦の詩集『戦争』の中の「光について」にある詩です。

縦長の方が、詩集の活字の雰囲気に近いような気がしますが、書に落とし込むのに、「かたまってうすきひかりのすみれかな」と同じようにあえて手札サイズで行数を増やして銀紙に書いたのでしょうか。

1965年の日本女流代表ミニ書展に出品する候補の一つだったのではないかと思われます。

 

小学3年頃のクリスマスに、母からのプレゼントが釣り竿セットだったことがありました。

姉弟が葉山海岸の夜店で毎晩金魚すくいに熱中しまくるのを見て、思いついたのかもしれませんが、川釣り用の4本継ぎの竹竿と簡単な仕掛け、釣り方の小冊子が入っていました。

 

春になって、母が葉山の別荘に用事があるというので僕も一緒についてゆきましたが、冊子にあったエサの作り方により、さつまいもをゆでて、ゆで卵の黄身をまぜて持ってゆきました。

用事が終わり、森戸神社の裏の磯に連れて行ってもらうと、エサを見た家の運転手さんが、それじゃダメだよというと河口の砂を掘って、ごかいを持ってきてくれて、それを付けて海に投げ込むと何と!いきなり25センチものあいなめが釣れたのです。

家に戻ると、母に教わりながらあいなめの煮つけを作り、家にいたほぼ全員が争うように食べながら、おいしい!すごい!の絶賛の嵐でした。

 

これが、その後の釣りキチと料理探求のはじめの一歩だったのです。

釣りは家の近くの、埋め立て前の新山下ヨットハーバーから始まりましたが、高校卒業まで飽きずに続きました。

 

小学生の料理は、インスタントラーメンが始まりでしたが、美味しそうに作ると姉が釣れるので、飽きて釣れなくなると工夫して豪華にするなど、なかなか面白く楽しみましたが、姉のダイエットの敵だったようです。

 

そのまま年を重ね、母が亡くなった後で、お手伝いさんが休みの時、これからごはん誰がつくるのかなー?と父に言うと、おまえだよ、、

え、、僕?、、

この時から家のごはん当番は僕になったのでした。

 

まあ姉の目玉焼きの真っ黒を見ていた父の判断だったのでしょうが、そのまま大勢の宴会もすべて作るようになるとは思いもしなかった19歳のことでしたが、あの時あいなめの煮つけを大げさに褒めちぎった母のやり方は、正しかったのかもしれません。

 

 

 

そうそう、真夜中のラーメン。

インスタントラーメンはあまり好きではありませんでしたが、隊長(弟ですが)が作るのはまさに絶品。

毎晩作るのやめてほしかったけど、美味しくてついつい全部食べてしまったのでした。

 

そして、真っ黒な目玉焼き。

そうです。

初めて目玉焼きを作った高校生の頃(遅っ!)、何回作っても(一回でいいっ!)真っ黒焦げになるのです。

火を弱めることを知らなかったわけで・・・・・。

その後、母が亡くなってから時々ごはん作った記憶がありますが、ごはん当番の隊長はいずこへ行っていたやら・・・。

 

新しいブログ原稿が送られてくるたび、何をバラされるのか恐ろしい姉でございます。

 

イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。