比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

 

けふこ  えてあ

 

いろはの三文字大作で、1966年に第二回創玄展に審査員として出品されたものです。

以前の作品と比べると一回り小さくなっていますが、書風も少し変わってきて本来のかなを意識したような落ち着いた書ですね。

この頃から現代の書家たちの為に、優れた昔からのお手本をもう一度出版しなければいけないのではないかと南谷と、話し合っていたのかもしれません。

実は、三文字の大作はこれが最後になってしまいました。天来生誕百年展が終わったらまた再開されたのでしょうが、そのまま終わってしまったのは残念ですね。

 

1958年から一般公開が始まった三渓園は、当時の横浜市民の憩いの場所でした。

イベント好きな母は、季節ごとに色々例えば花見、市電の走る大通りから桜並木を抜けて入口まで走る馬車にみんなで乗って行ったり(そのせいで、桜の下に並ぶ露店群には一度も寄らせてもらえなかった)、三渓園のはずれの崖の隙間から下りてゆく八聖殿裏の海岸での潮干狩り(最初は入場料だけだったのが、バケツ一杯の規制がかかり、網一杯までになり、小さい網一杯になり、1963年には遥か沖までの埋め立てが始まったのでお終いになりました。今は本牧市民プールになっています。)など、姉弟のお楽しみを沢山作ってくれましたが、その間にも父の会社の経理、書家の活動、など忙しかったでしょう。

三渓園までは道の両側にフェンスがあって、そこには芝生付きの住宅が並ぶアメリカがありましたが、我が家にも芝生の庭があったので、みんなが言うほどうらやましくはありませんでした。なんかごめんなさいな気持ちです、、、

 

 

「けふこ」と「えてあ」。

これだけ見ると、何を書いたのかよくわかりませんね。

「いろは歌」の途中(おしまいに近いところ)なんです。

今までの「いろは歌」連作をご紹介すると

 

「いろは」  1961年 日書展

「にほへ」と「とちり」 1962年 毎日書道展と日書展

「ぬるを」と「わかよ」 1963年 毎日書道展

「たれそ」 1964年 毎日書道展

「つねな」と「らむう」 1965年 第一回創玄展

「ゐのお」と「くやま」 1965年 小径会

 

 

今回の「けふこ」「えてあ」は濃い墨を使っていてにじみがなく、本文にも書かれているように、本来のかな書道を意識し始めたのかもしれません。

夫、南谷が、油絵具などを使った冒険の時代の後、紙と墨に戻り、「筆順」などの書的な表現を意識し始めたのは、第一回渡米から帰国した1961年です。

南谷はその後も立体的な線を追求していきますが、小葩の「けふこ」「えてあ」の線に立体化の意図は感じられません。

夫婦それぞれが別の道を模索しているように感じます。

 

さて、この後はどうなっていくのでしょう?

 

三渓園に馬車で行ったお話、実は私は覚えていません。

車好きの弟に対して、私は乗り物に興味がなかったのかもしれません。

(負け惜しみ)

でも、潮干狩りはよく覚えています。

熊手のような道具を使い、すごくたくさん採れてとても楽しい時間でした。

でも、だんだん採れる量が減っていって、飽きてきたのでした。。。。。

 

三渓園(2017年2月)

 

イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。