「隊長、私(詩)的に書を語る」は、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母、比田井小葩を回想しながら、小葩の書を語るシリーズです。
前回から「時々南谷」を追加して、比田井南谷の文字作品も紹介します。
これは、父、南谷が初めての渡米の前の1958年に書いた臨書作品です。
前衛作品だけでなく、漢字作品もなかなかいいですね。
この頃は、アメリカで書道に関心が高まりつつあったのか、大学での講義をするという目的でのビザがおりたのでした。
日本から1000冊もの書物や大量の拓本を携え、そのうえ英会話を入念に習い、学生のみならず大勢の知識人たちに書道の何たるかを教えてきたのでした。
そして一年後に帰国すると、今度は自分の前衛作品をさかんに発表していたのですが、そのころに経営していた会社を任せていた従業員が、暗室で父の開発した特別なフォントをたくさん複製して盗んで持ち帰り、父が日本で初めて確立した製法技術をそのまま使って自分で会社を作り、沢山の得意先に製品を半額で作るともちかけたのです。
それも三人が一社ずつ!
遠い親戚だった一人は思いとどまりましたが、二社はそのままでした。
裁判があって、それぞれ使用文字を少しだけ変えることで決着しましたが、値段は半額にせざるをえなくなりました。
つまり、僕が小学校、中頃の事だったので、この頃からあまり贅沢なイベントとか外車を取り換えるとかはなくなり、1963年式のマーキュリーコメットが最後までお出かけの車のままでした。
そこで落ち込まないのが南谷で、二回目以降の渡米は前衛を大々的に打ち出し、そのついでに会社に使える技術をアメリカで探して持ち帰るなど、会社の立て直しにも一生懸命でした。
思えば三十歳にも満たない南谷が父天来を病気で失い、出版だけはと頑張っているときに、兄弟の結核の治療費にと売られてしまった書学院の蔵書全部を買い戻すために勤めていた現、国土地理院をやめて退職金をそれにあて、結婚していた小葩とその親たちとの生活費のために小葩の着物まで質屋に持って行ったと後で聞いたことがありましたが、そんな中で立ち上げた会社がうまくいっているときに生まれた僕は、そんな苦労もなしでなんだか申し訳ないような気持ちがあります。
でも父にとって母、小葩の前向きに生きるパワーがあったからこそ頑張れたのかなと思ったりします。
今回は、比田井南谷の臨書作品のご紹介です。
臨書には形臨と意臨があると言われますが、南谷にとって、そのような選択肢はありません。
「臨書は恋愛である」とは南谷のことば。
原本を見つめ、没入し、一体となる。
今回の「鍾繇書薦季直表」の臨書についても、そんな真剣さがうかがえます。
さて、小さい頃の思い出は、南谷もたいへんだった、というお話です。
一番たいへんだったのは、1949年に横浜精版研究所を立ち上げた時。
小学校の入学試験(1956年)で「お父さんのお仕事は?」と聞かれ、「ロール磨き」と答えてしまったのを思い出します。
懸命に技術開発を行った結果、会社は順調に業績をあげ、1959年には渡米までできたのですから、すごいの一言!
その後は制作に夢中になり、会社は他人にまかせてしまった挙げく・・・。
確かに妻、小葩のパワーは、南谷を助けたと思います。
いつも言っていました。
「家内は俺で、お前は家外だ!」
イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。