私が書の仕事を始めた頃(1970年代)、比田井南谷はいろんな人からこう言われていました。
「文字を書かないあなたの作品は書ではない!」と。
南谷は、自分の作品は書だと主張し、その根拠を誠実に答えていましたが、理解されることはほとんどありませんでした。
(厳密に言うと、現在の状況も同じかもしれません。)
また、欧米に書を紹介するときも、書に対する偏見や誤解があり、解消したいと考えていました。
「書とはいかなる芸術か?」。
南谷はこれに答えるべく、書の芸術論を何度か発表していますが、それらの中から、わかりやすいと思うものを紹介したいと思います。
『現代書』(1983年・雄山閣出版刊)第二巻に収録された論文です。
書芸術の特徴
古来「書・画」といって、書は画より格調の高い芸術であるという風に見られてきた傾向がある。
一般的に言えば、画が描写芸術であるのに対し、書はたとえ詩文を書写しても、その文学的内容は表現されず、書く者の性情・性格が抽象的に表現されるのである。
つまり、ある意味で、絵よりも主観的で純粋な芸術であるということができると思う。
次に、どうして東洋のみに書道が芸術として高度な発達をしたかについて述べれば、これには次の2つの理由が挙げられる。
第一は、東洋では文字の書写に毛筆を使用して来たということである。
つまりペンや鉛筆では、書のような芸術的表現は殆んど不可能であるが、毛筆による線は無尽蔵な表現力を持っている。
柔軟な毛筆の取扱は、初心者にとっては丁度ヴァイオリンの運弓法の如く困難であるが、それだけに、鍛錬された運筆法によれば微細な感情の変化も余すところなく表わされ、高度の芸術的表現力を発揮するのである。
第二には、日本と中国は象形文字、あるいは表意文字を使ってきたということである。
表意文字は一字で或る意味を表わすから、自然その形は複雑となり、字形の種類も多くなる。
つまりアルファベットのような表意文字に対し、東洋の文字は変化が多く、芸術的表現に適している。
この表意文字は、中国では三千年のむかしから、篆書・隷書・楷書、あるいは早書き法として行書・草書というように、順次実用的な簡略化が行なわれた。
そしてその道程において、実用品を美化する東洋人の性格と、文字に対する尊敬心とが絶えず働き、また各時代の思想環境を反映しつつ、その形が美化された。
しかしその反面、文字の音標化という当然なさるべき実用上の改革の余地を与えなかったのは皮肉である。
上の事情からわかるように、書が太古の時代から抽象美術としての歴史を持っていることは、興味ある事であると思う。
書芸術の要素ー線・余白・時間性
次に書の芸術性を絵画と比較して私の意見を述べると、まずその最も著しい要素は、前述の如く「線の表現力」である。
書では、毛筆による線ー厳密にはある幅を持った細長い面であるがーの表わす性情を「筆意」というが、例えば線の遅・速、曲・直、潤・滑、強・弱など、さまざまな異なった線が、書く者の性情や制作の条件にしたがってあらわれてくる。
絵画の線は、物体の輪郭を仕切ることから出発したものである。
東洋画でも筆意が重んぜられてはいるが、書の場合は線そのものを以て文字を構成するという意識が強く、線がその生命であるから、その重要度において格段の相違があると思う。
次に書における構成の特徴は、第一に筆意と切りはなして考えられないということである。
運筆によって生ずる線の筆勢、ボリューム等によって、線そのものが立体的な空間感を与えることがある。
名人の書を評する言葉に「木に入ること三分」(『書断』)とか紙を離るること何寸とかいう形容が使われる。
筆力の強い書は、いかにも書く者の生命力が奥深く浸透している様に、また軽妙な書線はあたかも線が紙を離れて空中を飛動しているように感ぜられて、刷毛で塗った線とはっきり区別され、三次元空間感を与えるのである。
第二に、空白部(書かれていない部分)が非常に重要な意味を持つことがあげられる。
在来の名蹟は、必ずと言っていいほど余白部が一つの意味を持ち、輝きを発している。
特に草書や仮名の散らし書きに見られる思い切り広くとった空間、あるいは字間、行間などの余白に対する配慮は、音楽の「間(ま)」に共通する微妙なものを感ずる。
これら筆意と余白とが密接不離の関係にあることも述べねばならない。
書では、点や線で書くことが同時に余白をつくることでもある。
つまり、筆の運動は一つの速度、方向、律動などをあらわすから、自然、余白部の意味もそれに従って相違してくるのである。
次に書の時間的表現について一言すると、書は絵画のようにある比較的長い期間を画面完成に費すのではない。
いわば、一気に書き進み、書き終るという点に特徴がある。
つまり、作者の経験や修練といった人間的内容が、一つの時間的経過の中に表出されるのであって、この点で音楽と共通する要素が多い。
しかし書においては、ゆっくり書いても速度を感じさせる場合もあるので、音楽のような絶対的時間を表現するものではなく、心理的経過を画面に定着させるのである。
オートマティズムとの相違
外国人には、書がオートマティズムの一種であるように理解している人が多い。
筆を持って、手が自動的に動くままに作品をつくる、いわばでたらめに書いたものを書だと考えるわけである。
確かに、オートマティズムの制作過程に似た無意識的な、あるいは超意識的な要素を含む作家もおり、眼をつぶって書く作家がこれに当たるのではないかと思う。
これらの作家の中には、作者の人間性の表れた優れた作品もあるが、眼をつぶれば、どのような作品ができあがるかということを確かめながら書くわけにゆかないので、できてはじめていいか悪いかを判定することになるし、「童書」に共通する類型化を生みやすい。
また、ある種の偶然性に頼り、自分以上のものを作品に求めていると言えるのではないだろうか。
このようなオートマティズム的なものは、いわば麻薬陶酔患者の自己満足のようなもので、本来の書の妙味とはちょっと違ったものであると私は考える。
真に優れた書とは、偶然性に頼らず、精神的な鍛錬によって束縛から解放され、筆の表現力を最大限に発揮できてはじめて得られるものであろう。
また書は、元来文字を書く芸術であり、筆順に従って文字を造形してゆく間に、作家の情操が表現されるのである。
私のように文字を書かない実験の場合にも、一つの文字のような造形的なイメージが頭の中にあって、それに従って筆を動かす。
だからその場合でも必ずスケッチをつくり、それに従って書くことにしている。
連想性について
古典および現代の書の中には、ある物象を連想させるものがしばしばある。
これには、作家が意識的に行なう場合と、無意識的にあるものに似てしまう場合とがある。
意識的な場合には、たとえば竹や月という字を竹や月の形に書くというように、文字の形をそれが意味する物象と似させたり、あるいは空海の飛白のように、文字の一部をある自然物の形に置き換えたりするのである。
また、作家が意識していなくても、古文などの古い書体は文字として未発達のものであるから、元来絵画的要素を含んでいる。
また、素材が古文でなくても、書が一つの生命感を表現するのであれば、自然界の物体や生物の形と共通するものがあるのは当然で、必ずしも無理に排除すべきではないが、いずれの場合も絵画的要素は付随的なものであって、書の本質的な表現とは区別しなければならない。
文学的内容とのつながり
書は本来、文章や文字を書く芸術であったし、数々の古典作品もみなそうである。
しかし、書作品において、文学的内容と書という芸術の表現するものとはどういう関係にあるのであろうか。
古来傑作として知られる陸機の「平復帖」は、多くの学者に研究されているにもかかわらず、読めない文字がたくさんあり、文章の内容もほとんどわかっていなかった。
もし、文章内容が書表現の大きな要素であるのならば、現代のわれわれにはこの書のよさもよく理解できないということになるが、古来、古典の最高傑作の一つとされ、これに異論をはさむ人はいないだろう。
つまり、書作品の価値は文章内容とのつながりにあるのではないと私は考える。
これは音楽における曲と歌詞の関係に似ている。
現代音楽美学の基礎を築いた一人であるハンスリックは、有名な『音楽美論』の中で、音楽は文学的な内容によって鑑賞すべきではなく、独自の美的構造を持つと説き、「音楽特有美論」を力説した。
これを証明するために、悲しみの歌として称讃されて人々の涙をさそってきた同じ曲に、歓びの歌詩をつけても同様に感動を与えうるという実例を挙げ、さらにバッハの宗教音楽「クリスマス=オラトリオ」の中のマドリガル作品は、さまざまの世俗的即興カンタータから躊躇なく採用されたものであること、などを述べている。
書においても同様なことが言えるのではないだろうか。
もし書作品が、その時々に変化する書者の感情を表出するものであるとすれば、平安朝の古今和歌集は歌の内容にしたがって、当然、表現に変化を生じてこなければならない。
また、王羲之の集字碑などを鑑賞する場合は、個々の文字の意味とは無関係に、採用された原跡の持つ感情につれて、悲しみや喜びが交互に起こるという妙なことになる理屈である。
このように書芸術というものは、少なくともその発生以来三千年の間、書線という一種の造形的な手段を通して美的表現をする芸術であったことは間違いない。
それでは今後、文学的素材と書表現を結びつけることが悪いかというと、それは絶対不可能と言うことはできない。
芸術というものは、どんな契機で、今まで考えてもいなかった方面に展開するかわからないからである。
現在の近代詩文書という運動に対する評価は今後にかかっていると言えるだろう。
ただし私自身は前述したごとく、書の本質的な芸術性は線表現にあり、書かれた文章の内容とは切りはなして考えるべきであると思う。
このような書道観は、すでに岡倉天心によって主張されている。
彼は明治15年、『東洋学芸雑誌』8・9・10号に掲載された、洋画家、小山正太郎の「書は美術ならず」という論説に対し、同誌11・12・15号に「書は美術ならずの論を読む」という反論を発表した。
ここには、書表現と文章内容を区別する考え方が明瞭に打ち出されており、後に比田井天来もこれを重要と考えて、自らの主宰する「書道春秋」第二巻六号、七号に掲載したので、関連のある部分を次に引用することにした。
原文は非常に読みにくいので口語体に訳したものであるが、これは私が書論の英訳のためにわかりやすく意訳したもので、原典の語句に忠実でないところもあるため、原文も併せて付記した。
小山氏はまた「本邦の書は人心を感動させるから美術である」という説を反駁して、「いかに上手な書でも、文に意味の通じないような誤りを犯したならば、人を感動させることはできない。
また、たとえ下手な書であっても、名文や名句を書けば人の心を動かす」という。
ああ何とばかなことを言うのだろう。
そもそも詩文に感ずる心持は、書に感ずる心持とは別物なのであって、これを混同してはいけない。
たとえば李太白の詩を張旭が書いたと仮定すると、観者はこれに対して二様の感覚を起こす。
第一には李太白の詩が豪放、快活である点を愛する。
(この時は詩を鑑賞しているのであって、書の表現を鑑賞しているのではないと言ってもよい。)
第二には草書の名人、張旭の書表現が奔放で人を驚かすような飄逸な点を愛するだろう。
(この時は書表現を見ているので、詩の意味を鑑賞しているのではないと言ってもよい。)
この世の芸術は李白・杜甫・韓愈・柳宗元のような詩人の作った文学だけしかないという事になる。
そして「龍が天門に跳り、虎が鳳閣に臥す」と古人が形容したようないかなる書の名作でも、人がこれに感動する事は決してないであろう。
〈原文〉
小山氏又「本邦の書は人心を感動するによりて美術なり。」と云ふ説を駁して曰く「如何に巧なる書なりとも、不通の誤を記せば人心を感ずるなく、拙き書なりとも、名分名句をしるせば人心を感ずるや必せり」と。
嗚呼是何の言ぞや。
抑々詩文に感ずるの情は、大いに書に感ずるの情に異なり、之を混同すべからず。
例へば李太白の詩を張旭に写さしめば、人之に対して二様の感覚を起すべし。
一には詩仙の詩、豪邁快活なるを愛し、(此時詩を見て、書を見ずと云ふも可なり。)
二には草聖の書、奔放駭逸なるを愛さん。(此時書を見て、詩を見ずと云ふも可なり。)
若し小山氏の謂ふ如くなれば世は唯々李杜韓柳あるのみ。
龍の天門に跳り、虎の鳳閣に臥する如き書なりと雖も、人之に感ずること決して非ざるべし。
(『書道春秋』第二巻六号・昭和七年)
さて、東京画廊+BTAPで開催中の「比田井南谷展」最終日に、トークイベント「現代美術としての書」が開催されます。
(11月16日(土)16:30〜18:00 於・東京画廊+BTAP)
ゲストは著名な現代美術コレクターである高橋龍太郎氏と、東京画廊+BTAPから田畑幸人氏。
司会は私です。
南谷の作品は国内外の近代美術館で購入されているわけですが、「書」として理解されているのでしょうか?
お二人にうかがってみたいと思います。
ちなみに、こんな新聞記事もありました。
「日本からやってきた新しい抽象様式」