比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

人は 紙に字をかく

字は紙のうへで 生きる

 

小葩は自作の詩を書にすることがなかったのですが、写真だけで残ったこの作品が、小葩の気持ちなのでしょうか。

そこが南谷との決定的な違いなのかなと思います。

 

自分でカメラでパチッと撮ったのを写真屋さんに出して残したか、会社の暗室で引き延ばしてもらったかなので、定着液が弱っているようなムラがありますが、これ一枚しかないのでごめんなさい。

 

 

1960年に最初の車、マイナーチェンジした初代プリンススカイラインが家に来てから、旅行は湯河原の伊東屋旅館だけでなく、箱根ホテルも加わりました。

ただ、高速道路など全然ない時代でしたから、国道一号線をひたすら行くだけでした。

戸塚を迂回する有料道路が通称ワンマン道路で300メートルくらいで20円だったかと思いますが、あとは一車線の道路を6時間くらいかけてゆきました。

 

そんな中で楽しみは、相模川の馬入橋を超えた右側にあったトヨペットセンターで、円筒の大きな建物の屋上に初代のちょっとテールがとんがった本物のトヨペットコロナがまわっていました。

二階がレストランになっていて、一休みにみんなでソフトクリームを食べましたが、レストランも回っていたようなおぼえがあります。

 

そして帰り道には、その時々で母が仕入れてきた情報により、小田原で出来たばかりの洋食の木の実や、和食のだるまなど色々でしたが、皆が一番うれしかったのは茅ヶ崎フィッシュセンターで、水槽に目の前の市場から来たアジやサバ、鯛やヒラメ、さざえやあわび、イセエビその他ごちゃごちゃ泳いでいるのが、わくわくしました。

だって、水族館と違って食べるんですよ!

子供にとっては驚きでしたが、結局食べるのはアジの押しずしとか煮たのや揚げたので、生き造りではありませんでした。

 

そしてまた延々と一号線を帰り、夕方遅くに家にたどり着いてあー疲れたと皆ぐったりしましたが、あの頃の旅行は一大行事だったのですね。

 

ネットで調べてみたらなんと、つい最近までフィッシュセンターあったのですね、行きたかったなー。

 

 

 

そうそう、小さい頃はいろんなところに連れて行ってもらいました。

フィッシュセンターの水槽の「アジやサバ、鯛やヒラメ、さざえやあわび、イセエビその他」って、どーよ!

後にたどる運命はここですでに決まっていたのか?

 

今回の小葩の作品。

「人は 紙に字をかく 字は紙のうへで 生きる」

文字に存在感を与えるもの。

それこそが「書」。

 

さて、

「書表現の本質は線にある」と主張し、非文字作品を制作し続けた比田井南谷。

そんな夫と共に活動しつつ、詩文書を書き続けた比田井小葩。

(どっちも譲らない)

 

小葩没後の1983年に発行された「現代書(全3巻)」という本の中で、

「今後、文学的素材と書表現を結びつけることが悪いかというと、それは絶対不可能と言うことはできない。

現在の近代詩文書という運動に対する評価は今後にかかっていると言えるだろう。」

と書いています。

 

そして、小葩が倒れた時、南谷は独り言のように、こんなことを言っていました。

「書家として大成するのはこれからだというのに、惜しいことだ」。

 

文学的要素と結びついた新しい書の可能性を、南谷は妻、小葩に期待していたように思えてなりません。

 

イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。