比田井小葩(本名康子・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。
独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。
「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。
比田井小葩オフィシャルサイトはこちら。
母(小葩)の残した写真が入った箱を整理していたら、不思議な色に変色した、かなり大判の二枚の印画が出てきました。
探しても現物が無いので、でもこのままを鑑賞するとなんだか魅力的だと思いませんか?
海ぬれて 沙丘の風に桃咲けり やすこかく
飯田蛇笏の雪峡に載っている句ですが、キャンバスにパレットナイフで粗く斜めの地模様をつけてから、沙丘、以外をかなで書くことで、なにげなく見た時に色々な風景や感情がやってくるような気がします。
桃咲けりをかなで書いたことにより、この暑い残暑の中ではなんだか地中海の丘の上の白い壁にでも書いてあるように、なんて、北風が吹いたような時期になったらまた鑑賞してみたいなと思います。
桃咲けりは春の季語なんですよね。
草枯れて 夕日にさはるものもなし やす
明治28年、冬枯草に載っている高浜虚子の句ですが、こちらも夕日、だけ漢字にして、くさかれを変体仮名にするなど、冬の句を強く意識させないような工夫があるのではないでしょうか。
キャンバスに古びたような風合いを期待したのか、少しだけ別の色を斜めに擦りつけた上に書いています。
ムラのうえに、力強い線を迷いなく書くことは、かなを綺麗な料紙に書いてでもいるかのように見事ですよね。
写真の裏に、shoha hidaiと鉛筆で書いてあるので、ドイツの展覧会に出品されたのかも、、今は暑い残暑の夕方なので、モロッコの夕日に見えちゃいます、、
父(南谷)は夏休みの間に一度くらい何日か葉山にやってきて、海では首につかまらせてもらって、沖の飛び込み台まで連れて行ってもらったりしていましたが、あるとき4人で車に乗って出かけたことがあり、海沿いの道の、長者ガ崎を超えたあたりで崖を眺めていた父のここだ!の声で、車を脇に止めさせると紙を持って、いつもの黒い長袖と黒いズボンに革靴のまま、崖を登って行ってしまいました。
小一時間もすると、巻いた紙を満足げに持った父が帰ってきましたが、何のことやら?でした。
夏休みが終わって、岩の拓本の上に作品を書いたのだということがわかって、そういえば本物の拓本に書いたのもあったねーだったのでした。
きっと本物には文字があって邪魔だったのでしょう。
そういえば出版物にスクリーンの網点が出るのがいやで、すごく細かい300線とか使ったり、砂目スクリーンなんかを使って絹の上に印刷したり、透明インクで模様を付けた表紙を使ったり、二人とも地に、並々ならぬこだわりがあったのですね。
今回は不思議な投稿です。
いろんな写真が放り込まれた箱の中にあったモノクロームの作品写真。
カラー写真も、ましてや作品そのものも見たことがありません。
バックに色が塗られているらしいのですが、どんな色かわかりません。
だからこそ生まれた、不思議なイメージ世界です。
そして、南谷は本当に拓本が好きでした。
書の歴史の大きな部分を占める拓本、そして美しい岩肌。
写真は、アメリカのボリナス海岸で拓本をとる南谷です。
南谷が蒐集した中国の書の拓本類の中に、「単なる拓本」と書かれた封筒があり、本当に文字のない単なる拓本が入っています。
これ、どーしろと言うのだろう。
(イタリック部分は比田井和子のコメントです)