1月4日は比田井天来の命日なので、お墓参りに行きました。

すばらしい青空が広がっています♬

 

比田井家のお墓があるのは、北鎌倉建長寺。

天来は晩年、建長寺の塔頭(たっちゅう)、華蔵院(けぞういん)を復興したので、比田井家のお墓はこの華蔵院にありましたが、後に建長寺墓地に移しました。

 

去年の建長寺は訪れる人がほとんどなく、閑散としていましたが、今年は参拝する方が増え、活気がありました。

 

参道を歩いていくと、左側に、上田桑鳩先生が揮毫された「比田井天来先生碑」が建っています。

今日はこの碑について書いてみましょう。

 

上の写真は、昭和15年5月5日の除幕式です。

左のほうに上田桑鳩先生のお顔が見えます。

その部分を拡大してみましょう。

 

上列右が上田桑鳩先生です。

下列左は、田代秋鶴先生とともに石碑の建設副委員長をつとめられた鈴木翠軒先生、右端は天来の次女、比田井千鶴子、その左は尾上柴舟先生です。

建碑除幕式に関するブログはこちら

写真に写っている方のお名前がわかりますので、ぜひご覧ください。

 

 

さて、「天来先生碑」の拓本は、かつて書学院出版部から複製発行しましたが、しばらく絶版になっていました。

重版を望む声が多かったのですが、原価と部数の折り合いがつかず、重版できずにいました。

2022年、少部数を手作りで刊行する「天来書院選書」が始まりました。

その三冊目として、「天来先生碑銘」を発行することができたのです!

 

細い線であるにもかかわらず、強さと生命力あふれるリズムを感じさせる傑作です。

前半は原寸復元です。

文章を作ったのは臼田桜邨(うすだおうそん)。

長文なので、すべてを原寸で復元すると高額な書籍になってしまうため、後半はほぼ70%に縮小し、一行の字数を増やして行並びを組み替えました。

 

「蝉の声」という本に、石碑を揮毫なさった時のいきさつなどについて、桑鳩先生自ら記した随筆が載っています。

師を思うひたむきさや、ご自分の仕事に対する並々ならぬ情熱があふれた感動的な文章です。

ぜひともたくさんの方に知ってほしいと思い、巻末に収録しました。

その一部をご紹介しましょう。

 

この文章が書かれたのは昭和18年。

文字を揮毫した4年前を回想します。

 

そこで先ずどういうものを作ってみようか。その着想を考えた。

それはいわずもがな、先生の芸術、並に精神と抱負、事業と教養、それに風貌といったものを綜合して、それから興る私の感懐を書いてみるのが正しいのである。

只上手に何の意味もない字を書いたのでは、先生に対して、又自分の書芸術に対する信念が許さない。

そうすると、これを盛るに最も相応わしい書風を考えなければならない。

その書風も、先生は書道の復古運動を完成された方であるから、古典の型に拠る方がよいようだ。

しかし、先生の風貌や印象の諸條件を表徴するものとなると、ざらにあるものではない。

 

そして、いろいろな書風で試し書きをしているうちに、「雁塔聖教序」がよいのではないかという結論に達しました。

 

それにしても、この細い字で、先生の偉容と高迈なる精神を如何に具現すべきかの技法の問題に当面して、はたと当惑せざるを得ない。

そこで、これは逆の手を打ってみようと考えた。

即ち一般には、太く強い点画で、強い印象を現わそうとするのだが、この場合、偉大感は字の懐抱を大きくして空間に托することにし、目に見えぬ大きさや拡がりによって表現しよう。

そうして、先生の芸術家的な、繊細に働く神経の鋭さは、鋭敏に活動する雁塔張りの筆意と、線質に具象する方針をとってみよう。

 

こうして準備が整い、箱根早雲山の中腹にある寺院の一室に閉じこもることになりました。

 

山へ登った日の午後と、その翌朝は散歩して、この環境に心をひたらせるようにした。

それが終ると、机に向って手と筆を馴らせるために、一日中、雁塔聖教序を初めから終りまで、一通り原寸大に臨書して暮した。

その翌朝から愈々碑文の字を試作的に書いてみるのだが、雁塔聖教序だけの倣書では、最初狙ったものは出来ないことのあるのを発見して、六朝風のぴりっとした、雁塔聖教序にしては峻抜過ぎる運筆や、楽毅論や菘翁の味等を参酌し、それを自分の主観によって淳化して書くことにした。

 

そして翌日、まず一通り書き終えました。

 

紙は改良美濃紙に方眼に線を引き、長さは碑面の長さに継ぎ、横は継がないで六行分の幅である。

従って細長い紙を六枚横に並べると、丁度碑面一杯になるようにしてある。

これを広い座敷に展べて見ると、最初の一枚分は字が生硬だ。

そうして又最後の一二枚は疲れが見えて弛んでいる。

最初から一亘り見渡してみると、書流して行った跡は分るのであるが、前後が余りに調子が違っているから、これを或る程度まで纏めなくてはならない。

 

それで考え付いたのが、書初めてから三四行目になると、調子が出て字が熟して来るから、調子がよくなったら又最初へ戻って行って書く。

疲れたらあっさり止めて、遊ぶことにした。

翌朝は咋日書止めたところより三四行前から書起す。

そうすると、昨日書止めたあたりに来ると、咋日の調子とぴったり合って来る。

こういうことを繰返えして書終るのだが、これでは一回毎に前後の三四行は犠牲になる。

全力を尽すためには、これ位のことは何でもない。

 

そして何度も書き直し、納得のいくものを選び出し、さらに気に入らない字を書き直し、文字の前後の気脈を調整します。

予定の期日を大幅に超えて山を降りましたが、補訂の作業は帰宅後も続き、ようやく完成したのは半月後でした。

 

しかし、桑鳩先生の情熱はここで終わりません。

石の彫りかたにも妥協を許さないのです。

 

出来上ったのを、一度建設副委員長の田代さんに見て貰ってから、石勝へ渡したのであるが、拙作ながら、苦心したこの字を疎雑に刻されては、努力が水泡に帰するので、先づ他の石に、反古で試刻して貰うことにした。

出来たというので見ると、全く精彩がないばかりでなく、自分の字らしくなく、筆者の私が感じるのである。

覚えのある筆の割れや、瘤が全くなくなって、ゴム印のようにのっぺりした字になっている。

これでは、微細に筆意を付けたのが何にもなりはしない。

どうも合点がゆかぬので彫方を尋ねると、所謂、石勝得意の美術機械彫りと称するやつである。

それで読めたのであるが、最初の見積書の刻字料が余りに安過ぎたのであった。

 

機械彫りをやめて職人による手彫りに変えてもらい、職人を指導します。

 

この書風は碑では一般に見ないし、筆意と顫律が細いから、職人が普通の字のように、字肌を綺麗を旨として彫ってくれては困るので、職人を家へ呼んで、字を書いて見せ、突込んだ筆致と、引抜いた調子とは、同じ形でも筆当りの味に相違あることや、毛先や割毛の出た、微妙な味の面白さを細かく説明してやると、三人の中で、五十がらみの、一番頑丈で無骨な職人は、何だこせこせいって、といわぬばかりに、子供をあやすように、分りました分かりましたと安請合いをした。

次の六十に近い実直そうな男は、一々丁寧に見ていて、これは私等のなまじっかな考で彫るより、書いてある通りをそのまま彫る方がよいと答へる。

最後の三十五六の男は、頑丈ではあるが、粘りと熱を持っていそうな朴訥な職人で、熱心に書くところを見ていて、これはむずかしいが面白そうです。

勉強する積りでやりましょうというのであった。

私はこの三人の態度と返答だけで、まだ見ぬ仕事振りが大体想像出来る。

最初の一人はどうも気に食わない。

 

愈々大きい碑石は仰向けられ、字の貼付けも終って、刻字にかかることになった。

私は毎日一度は石勝の職場へ出かけて指導したり監督した。

ところが、見ていると、案の定、気に食わなかった五十がらみの職人は神経の荒い男で、がつがつと上部の方を彫っている。

字肌をつぶしそうで危くて見て居られない。

そこで監督に聞いてみると、彫方が拙いから、建てた際に目立たぬ上部を彫らしてゐるらしいのだ。

こちらは上部も下部もありはしない。

全部完全に彫ってくれなくては困るのだ。

これでは堪らぬから、あの職人は止めさせてくれと申込むと、職人の方も、こんな気骨の折れる仕事は御免だといって、尾を巻いて逃出してしまった。

 

始めたことは最後まで責任をもって完成させる。

桑鳩先生の強い意志が伝わってきます。

 

今ここに建てて眺めてみると、意に満たぬ字ばかりである。

今だったら、もう少し上手に書けるだろうと思っても、何とも仕ようがないのである。

これも私の歴史の一頁として、こんな拙いものも書いたとして残るのである。

恥しいことだ。

ただ然し、当時としては全力を捧げたという誠意を買って貰いたい。

後は年時がたって、風雨がこの拙い字を漫漶して、悪い処を自然に蔽ってくれるのを待つより方法はないのである。

 

情熱の人、上田桑鳩。

桑鳩先生が精魂込めて書き上げたこの傑作を、1人でも多くの方に知ってほしいと願っています。

書道