飛騨高山にある「光ミュージアム」で「桑原翠邦が求めた書」展が開催されています。
期間は2023年4月20日(木)から6月5日(月)まで。
初日にうかがいました。
展覧会場の入り口です。
左側には屏風が展示されています。
こんなふうに大きな空間で拝見すると、いつもとはまた違った趣を感じます。
全国からたくさんの方が会場に駆けつけました。
私もいろんな方と久しぶりにお目にかかれて大感激!
翠邦先生の30歳代から90歳(数え年)までの代表作が展示されています。
天来書院で図録作成をさせていただいたので、先に作品写真は拝見していましたが、想像をはるかに上回る充実した展示にびっくりしました。
一番右は「魯孝王刻石」の臨書(1959年・54歳)。
発表された当時、書宗院以外でも取り上げられ、評判の高かった作品です。
「臨書は芸術か?」などという論争がありますが、この臨書を拝見すると、そんな議論は吹き飛んでしまいます。
太平洋戦争後、翠邦先生の師である比田井天来の門下から「前衛書」「少字数書」「近代詩文書」という新しい運動が生まれました。
翠邦先生は伝統書家であるように評論されることが多いのですが、天来の条幅のほとんどが自運だったことを考えると、古典の健やかな美しさを現代に蘇らせたという点で、翠邦先生はまさにルネサンス運動の騎手と言えるのではないかと考えています。
その次は右から「集王聖教序」(59歳)、「定国寺碑」(57歳)、「潘存臨高貞碑」(66歳)、そして「空海灌頂記」(55歳)の臨書です。
翠邦先生の手によって原本の素晴らしさがよみがえり、さらに多彩な美へと昇華していった様子を、会場で実際にご覧いただきたいと思います。
広い会場に生まれた潤いあふれる空間。
一人の作家の手によるものとは信じられないほど、多彩な世界が展開されています。
この「張玄墓誌銘」の臨書は、翠邦先生43歳のときに「日本書道美術院展」に出品されたものです。
1948年ですから紙がなかなか手に入らず、半切を横に使って五段の構成になさったそう。
原本の筆意が余すところなく活かされた格調高い作品だと思います。
覗きケースに入っている「空海風信帖」の臨書は、翠邦先生が36歳のときのもの。
瑞々しい強さ、美しさに圧倒されます。
左端の「天生百福 人得千祥」、中央の「敬愛」の筆力はすばらしいですね。
右端の「大吉祥」は90歳の作品。
澄みわたる高い境地を感じます。
オープニングセレモニーの後、桑原呂翁先生のご講演がありました。
一時間の予定だったので、まわりの先生方が心配して車椅子を用意なさったとのこと。
そのほうが安心して拝聴できます。
呂翁先生は昔からお話がすばらしく、今回はさらに輝きを増して聴衆を惹きつけてやまず、あっという間の一時間(と少し)でした。
1934年の代々木書学院での一コマです。
比田井天来と小琴を囲んで、左端が桑原翠邦先生、小琴の右に金子鷗亭先生と三宅半有先生。
天来は翠邦先生に大きな期待をかけていました。
自分のかわりに中国へ行き、書を教えるように命じたほどです。
1939年に天来は他界。
1941年に帰国した翠邦先生は、天来門下による新しい書の流行の中でひたすら古典研鑽につとめ、自らが主催する書宗院では、「臨書」だけの展覧会開催に踏み切りました。
ともすれば類型化に陥りがちな書道界にあって、その弊害から免れることができたのは、一貫して「臨書」を重視した先生の姿勢によるものだと思います。
1972年からは東宮御所への書道御進講をつとめられました。
上の写真は1980年に望月町立天来記念館へおいでになった、当時の皇太子殿下と妃殿下(現上皇上皇后両陛下)に、作品解説をなさったときの一コマです。
(ちなみに、翠邦先生の左は、天来の次男、比田井南谷です)。
ご進講を機に、翠邦先生は大規模公募展審査などから身をひき、天来がしたように全国を旅して、書のすばらしさを説きました。
最後に、桑原翠邦先生のことばを引用します。
道が本体であり、主体である。
人間は客体であって道を具現すべき器であるに過ぎない。
道を先とし、個を後とすることによって、却て個も生き、道も共に生きるのである。
「書宗」巻頭言(昭和38年9月)