1959年11月26日、比田井南谷はシェーファー図案学校の招聘を受けて、サンフランシスコへと旅立ちました。

 

サンフランシスコで南谷を迎えたのは、渡米のために尽力した画家、アン・オハンロンです。

(アンとその夫、ディック・オハンロンに関してはこちらをご覧ください。)

南谷はアンの友人のフィリップ・ミュートロー氏の自宅の1階に住まいを借り、地下にアトリエを手造りしました。

 

日本から1000冊の書籍が届き(赤玉ポートワインとニッカウィスキーのダンボール箱だ!)アン・オハンロンが拓本に見入っています。

書籍を見たいと南谷にリクエストしたのは、アンだったかもしれません。

 

南谷を招聘したルドルフ・シェーファー図案学校で書道教室が始まりました。

有名な画家やデザイナーを輩出したした名門美術学校です。

南谷は、筆遣いの基本を簡単に教え、その後はお手本を書かず、古碑帖の中から好きな古典を選ぶように指導します。

右端の人は、拓本をお手本にしていますね。

 

南谷は学校だけでなく、自宅のアトリエでも、書に興味を持っているアーティストに書を教えました。

 

テーブルだけでなく、床にも紙を敷いて熱心に臨書しています。

どんな作品ができたでしょうか。

 

左は金文「宝」字のようです。

のびのびとした豊かな曲線が書かれています。

右の「妙」は、スピード感あふれる筆遣いが見事です。

書の古典を学ぶことによって、さまざまの線を体験することができました。

お二人とも、とてもうれしそう。

 

漢時代の摩崖碑「開通褒斜道刻石」の「為」字の臨書です。

おもしろいですね。

小さい黒い丸が散っていますが、石面がでこぼこしている摩崖の雰囲気を表したに違いない!

 

南谷は帰国後、1961年6月16日の日本経済新聞に、次のように書いています。

 

わが愛弟子たちは主として指導的立場にある教授や芸術家であったので、理解の早かった点もあるが、その良さは子供の作品に見られるような稚拙味でないことは、帰国後これらを見たこちらの専門書家の等しく認めるところであった。

もちろん彼らに文字の意味を教えるひまはなかったので、時には手本を逆さに見て習うというような情景もあったが、それだけに書道を線芸術として純粋に理解させることができた。

私の目的は、ただ彼らに東洋趣味を植えつけることではなくて、三千年の歴史を持つ独特な抽象芸術が米国の芸術心に正しく受け入れられるか否かを試みることであったので、これで満足であった。

比田井南谷オフィシャルサイトレポートVol.15に記事の全文掲載)

 

一方、日本から運んだ作品を発表するための個展も計画されました。

1960年5月末から、サンフランシスコのデヴィッド・コール・ギャラリーで、「個展および中国・日本の数十種の拓本展」が開催されました。

 

ポスターに掲載されているのは「作品58-44」(1958年)。

キャンバスにラッカーで地塗りをして、油絵具で書いた作品です。

欧米の絵画は「面」によって構成されており、「線」は輪郭を示すものに過ぎませんでした。

ところが南谷の作品では、「線」が迫力あふれる造形を生み出しています。

このことは、アメリカのアーティストに大きな衝撃をもたらしました。

 

1960年10月2日の新聞記事には「日本からの新しい抽象様式」と書かれています。

南谷が示した「線の芸術」は、抽象絵画の一つの様式として理解され、受け入れられたのです。

 

デヴィッド・コール・ギャラリーで同時に開催された拓本展も評判を呼びました。

手前の壁面に貼られた拓本は北魏時代の鄭道昭(ていどうしょう)の「論経書詩(ろんけいしょし)」です。

中国では、大きな石の表面にたくさんの手書き文字が彫られ、さらにその拓本が採られるということに、人々は驚きました。

雄大で迫力あふれる拓本をひと目見ようと、多くの人が会場を訪れました。

 

続いて、10月15日から30日まで、同じくサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークにあるデ・ヤング美術館で「比田井南谷―抽象書道」(NANKOKU HIDAI ABSTRACT CALLIGRAPHY) が開催されます。

 

会場には、30点ほどの作品が展示されました。

一年間の活動のために、書籍1000冊と拓本数十点、そして数十点の作品を送らせ、自ら「書」のすばらしさを説いた南谷。

東洋だけに伝えられ、そして今、新たな展開を見せている「書」という芸術を知ったアメリカのアーティストたちは、新しい表現の可能性を感じたに違いありません。

 

この展覧会は広く紹介され、南谷にとって、次の飛躍への足がかりというべき一つの出来事がありました。

美術館を訪れたニューヨークの画廊主、ネッド・オウヤングから、個展を依頼されたのです。

最先端の芸術家たちが結集する都市、ニューヨーク。

サンフランシスコのアトリエで書いた最新作を携えて、南谷は12月にニューヨークに向かいました。

 

ニューヨークでの最初の個展は、12月1日からニューヨーク市ニッポン・クラブで開催され、大きな反響を呼びました。

そして、翌1961年1月4日から28日まで、ニューヨーク市マディスン・ストリートにあるミーチュー・ギャラリーで「比田井南谷―抽象書道」が開催されました。

 

会場には日本から運んだ作品に加え、サンフランシスコで制作した最新作「作品60-13」「作品60-14」も展示されました。

展覧会に触発され、MoMA(ニューヨーク近代美術館)は昼食会を催し、同館の代表者とロックフェラー財団等の代表者、およびマザーウェル、イサム・ノグチ等の芸術家を招いて、南谷とともに書について語り合いました。

そして、MoMAはじめ著名コレクターが、南谷の作品を買い上げたのです。

 

左はニューヨーク近代美術館初代館長アルフレッド・バーJr.が買い上げた「作品59-40」、右はニューヨーク近代美術館が買い上げた「作品59-42」です。

 

後年、MoMAから南谷に宛てた手紙が残されています。(1963年5月5日付)

 比田井さま

私たちの美術館のコレクションにあなたの4つの墨象作品を収蔵できて非常に嬉しく存じます。それらは最近、ニューヨークのミーチュー画廊から購入いたしました。

同封の質問書に目を通し、すでに記入されているデータに修正や追加をしていただくと、美術館にとっては非常に有益です。 御面倒だと思いますがこのような情報はとても有用であって、美術館のコレクションに関するファイルのために必要です。 さしあたり、多くの感謝を込めて

敬具     Sara Mazo 美術館コレクション学芸員助手

 

「4つの墨象作品」とありますが、詳細はMoMAホームページで確認できます。

 

「作品59-42」は、当時南谷が好んだシンプルな軸装がほどこされています。

「作品60-B」「作品60-C」「作品60-D」は1960年にサンフランシスコで書かれたもので、右端の「作品63-14-3」は第二回渡米のときに購入されたものです。

画像準備中の作品が二点あります。

 

MoMAでは、1961年のミーチュー画廊の個展のあと、比田井南谷の講演会を予定していました。

また、カーネギー工科大学美術カレッジのグラフィック・アート学部からも講演の依頼を受けていました。

しかし、南谷は帰国を余儀なくされます。

妻が病気になったのです。

 

比田井南谷 妻小葩への手紙

 

3月29日

兎に角、出来るだけ早く帰ることに決心した。

4月20日から来月までの間で、飛行機の座席が見付かる事と思う。

今は一年中で一番の遊覧旅行季節で、どの航空会社も5月までは一杯だそうだ。

オハンロン夫人が空席となった座席をさがすため骨折っている。

今朝ニューヨークから電話があり、近代美術館で6月中に僕に講演をたのむ事が決定したといって来たけれど、断った。

長い電話だった。

1万円位だろう。

スライドも250枚位撮影し終わった所で残念だけれど仕方がない。

ニューヨークでは多勢の関係者がこの実現のために努力してくれた結果だけれど……。

ワイフの重病のためには有らゆるものを犠牲にしなければならないだろうと云ってやったら納得した。

これから関係者に断りの手紙を沢山書かなければならない。

(後略)

 

たいへん残念がっていますね。

ようやく認められ、活動しようと思っている矢先のできごとでしたから無理もありません。

でも、妻、比田井小葩は、どんな時も自分を支えてくれた大切な人。

それに、一年間で帰る約束だったのに、もう4ヶ月もオーバーしています。

 

こうして南谷は、1961年4月末、帰国の途についたのです。