私たちは「個性」が大切だと教えられてきました。
芸術の価値が、他人と異なる独創性にあるとすれば、お手本のまねをする書の学びかたは、なんだか古臭く見えます。
「好きなように書いてみよう」と指導するほうが、個性を伸ばせそう。
楽しそうだし♫
待ってください。
生まれながらにして持っている「個性」って、そんなにすごいものですか?
個性発揮などというケチな考えはやめなさい。
そう言ったのは比田井天来です。
今の芸術界では個性を発揮するということをやかましく言うてはいるが、人の性は、愚人または狂者ならざるかぎりはそう違っているはずはない。
孔子も「性あい近きなり。習うことあい遠きなり」といわれているとおり、円満に発揮して善人になる人と、偏屈に育つ人と、はなはだしきは悪人になる人と、中年に達してみると非常の相違になることをいわれたのである。
円満に発達するというのは、偏せず党せず、よく中庸をえていることである。
はたして人の性がそのままに芸術に彰わるるものであれば、中庸をえている人の芸術は、少しも特色を有せず平凡になるべきはずである。
平凡なる芸術はすなわち俗である。
はたしてしからば、人として貴ぶべきところの中庸の徳を具備している人の芸術は凡俗であるといわねばならぬのである。
しかるに事実はこれを裏切ってけっしてそうではない。
聡明にして中庸をえている人にして、はじめて凡俗ならざる芸術を創始することができるのである。
さてさて、たいへんなことになりました。
聡明にして中庸を得ているとは、どのような意味なのでしょう。
天来は続けます。
世の中のものはすべて偏っている。
そして時計の分銅のように、中心に向かって動き、往き過ぎては返り、返りすぎては往き、つねに活動している。
偏っている今の状態を自分の個性だと思い込み、それをのばしていこうとする人は、小さい自分で終わってしまうだろう。
偏っている自分を壊して中心に向かおうと努力する人、それが中庸を得ているという意味なのである。
自己流の字ばかり書いて個性に安んじていたら、すぐに習気が出てきて死物になる。
ゆえに碑版・法帖そのほかあらゆる方面から古名流の性情を倩いきたって、わが固有の性を一時破壊しなくてはならぬ。
これを破りこれを破り、さらにこれを破ってまったく破るべきものなきにいたれば、いままで自己の個性と見ていたものは、隣れむべき六尺の腐肉に食い込んでいた寄生虫であらねばならぬ。
この寄生虫を殺しつくして、しかる後に真の自己が出てくるのである。
ゆえに学問においても芸術においても、個性を発揮するということには意を用うる必要はない。
むしろ小さい自己の個性を破壊して、大なる性となることを勉めなければならないのである。
自分の個性を破壊するための臨書。
技法を学ぶのではなく、技法を壊すための臨書。
すべての技法を壊し尽くして、得ることができる本当の技法。
この文章が書かれたのは大正12年、天来は52歳です。
「固有の性を破壊すべし」と語った天来の作品は、どのように変わってきたのでしょう。
同じ字句を書いた天来の作品を掲げました。
左の42歳の作品に比べて、右の48歳の作品では、すっきりとした強さと緊張感が加わりました。
古典の全臨集「学書筌蹄」の刊行が始まったのは、その2年後、天来が50歳のときです。
左から張猛龍碑、鄭羲下碑、雁塔聖教序の臨書。
柔らかい毛の筆によって培ってきた技法を捨て、とても剛い毛の筆を用いています。
筆法は、自ら発見した「俯仰法」。
原帖に迫る、写実的な臨書です。
そしてその後も、天来の作品は変貌を遂げていきました。
天来は昭和13年1月、癌が再発し、自宅で手術を待つ間に、作品114点を揮毫します。
太い線による重厚な作品や、軽やかで明るい作品など、極めて多彩です。
これらは、同年12月に発行された生涯唯一の自選作品集「戊寅帖」に収録されました。
上田桑鳩は序文に「老熟完成の域に達した」と書きましたが、天来は「これは自分の一道程一傾向に過ぎない」と語りました。
翌年1月4日、帰らぬ人となったのです。
臨書とは、手本の型に習熟することではありません。
臨書とは自分を壊すこと。
新たな世界を体験することです。
創造と同一線上にある臨書。
それこそが、書を芸術たらしめる核であるといえるのではないでしょうか。
太字になった天来の文章は次の書籍から引用しています。
『現代書道の父・比田井天来』 比田井和子著・天来書院刊行
初出論文のタイトルは「各体書に於ける筆意及び隷楷書の関係並に芸術書と実用書の相違点」
『書道提要19』書道館建設後援会刊行・大正12年
比田井天来の本とDVD(下の画像をクリックしてください)
比田井天来のホームページ(下の画像をクリックしてください)