毎日新聞で「名碑探訪」という連載が始まりました。

初回は上田桑鳩先生が揮毫なさった「比田井天来先生碑」。北鎌倉の名刹、建長寺にあります。

 

 

新聞には「建碑のときの写真がない」と書かれていましたが、

あります!

ご紹介しましょうね。

 

その前に、この碑がどのような経緯で建てられたか、『近代書道開拓者 比田井天来・小琴』(長野県佐久教育会発行)から引用します。

 

比田井天来が他界したのが昭和14年1月4日、石碑の建碑趣旨書が作られたのは昭和14年6月です。

主催者は比田井天来先生建碑会。

主唱並びに発起人は413名。

題額は清浦奎堂、撰文は臼田桜邨。

建設委員長武田秀雄、副委員長は田代秋鶴と鈴木翠軒でした。

寄付金は金3円以上で同年10月締め切り、竣工は昭和15年3月、除幕式は同年3月末を予定していました。

 

が、工事は遅れ、実際の除幕式が行われたのは、昭和15年5月5日でした。

 

大沢雅休の手記があります。(現代仮名遣いに直しました)

 

待ちに待った建碑除幕式当日、それは5月5日男の節句の吉日である。

若葉青葉に藤波の揺りかかる勝地鎌倉(建長寺)へと心は頻りに急ぐ。

ためにあの速力ある省線電車ももどかしい位、

(中略)

遠近各地より参集者が続々と無慮三百余名の多数に及んだ。

さて、先生の碑の建てられた地点は、本堂に向って左後方庫裡に通ずる道路を隔てた老杉鬱然たる霊域である。

二丈余もあるさしもの大きな碑石であるが、そうした蒼古幽邃な大自然に擁されているので、参会者一人残らず、森厳感に打たれつつ心中快哉を叫ばざるを得なかったのである。

 

式典は、午前9時から除幕式で、南谷(漸・天来次男)の長男、健によって除幕されます。

11時30分から式典が行われ、大沢雅休の司会進行のもと、委員長代理、田代秋鶴による開式の辞、田代秋鶴と鈴木翠軒の焼香、来賓総代清水中将、友人総代鈴木雲洞、門人総代上田桑鳩らの祝辞などがありました。

その後、雨が降り出しましたが、記念品・弁当・瓶詰・菓子を券と引き換えて庫裡の大広間茶話会場で歓話談笑和気あいあい、午後1時半頃散開となりました。

 

記念写真は

 

バックの中央に石碑が見えます。

でも、大勢なので、お顔がちっちゃくてどれが誰だかわかりませんね。

 

まずは写真の左半分。

 

 

この方たちの中ではっきりお名前がわかる方はというと

 

前列左端が副委員長、鈴木翠軒、もう一人、副委員長の田代秋鶴は二列目の右の方です。画面中央には文字を揮毫した上田桑鳩。

ほかに、西脇呉石、尾上柴舟。秋田県から山口蘭渓(お名前の左上)と花岡青陽(お名前の左上)。

門下は石橋犀水(お名前の左上)、村上北海、山崎大抱、武士桑風(お名前の右下)、田中誠爾(もと日下部鳴鶴門下)。

オレンジ色の名前は家族です。

左は次女の千鶴子(洋画家で雅号が東山紗智子)、このときの夫、角浩(洋画家)。

次が天来三男の比田井洵(後フルーティスト・陶芸家)。

比田井菊子は南谷の最初の妻で、抱かれている比田井健が除幕(ちっちゃいけど)をしました。

 

続いて右側。

 

 

天来門下の方々のお顔がたくさん見られます。

沖六鵬、金子鷗亭(お名前の下)、石田栖湖(お名前の左)、手島右卿(お名前の真上)、田中雄太郎(小琴が田中家の一人娘だったので、夫婦養子になり田中姓を名乗る)、高石峰、森田子龍(お名前の左)、大沢雅休、右端は上野利友(天来の書生)。

小琴の門下は天野翠琴(お名前の右上)と堀桂琴(お名前の下)。

他に、川谷寿子(川谷尚亭長女)や赤城邦輔。

比田井家から小琴(妻)、抱琴(長女・ゆり子)、慈子(三女)、徹(四男)。

 

と、確実にわかっている方のお名前のみ記しました。

人数が多いので敬称を略しました。

 

ほかにもわかる方がいらっしゃる場合、フェイスブックなどに書き込んでください。

ただし、想像はだめです(きっぱり)。

確固たる根拠がある場合のみ。

 

文字を揮毫なさった上田桑鳩先生の手記が『蝉の声』という本に載っています。

とても感動的な文章なので、そのうちにご紹介しましょうね。

書道