掲載の集合写真は、書道講習会の第一日目終了後に開かれた「講師、助手歓迎会」の記念写真である。昭和4年8月2日の夜である。この写真に写っている人たちの中で、私が馨咳に接したことのある先生は鈴木翠軒先生、山下是臣先生、西田芳舟(大画)先生、奥野河南先生である。翠軒先生には私が横浜の書学院出版部で仕事をしていた時、出版物の事で世田谷のご自宅にお邪魔した。山下是臣先生は比田井小琴先生と阪正臣門下の兄弟弟子で、貫名菘翁の蒐集家でもあった。比田井南谷先生のお供をして大阪・堺市のご自宅に、菘翁の作品を撮影させていただきに上った。菘翁作品の他に、尚亭の小品、短冊、本の題箋等があった事が思い出される。奥野河南先生と最後にお会いしたのは、比田井天来生誕120記念展が天来の郷里長野県佐久市望月の天来記念館で開催された時。西田大画先生とは、大璞会(天来門流の会)の懇親会がホテル・オークラで開かれていた時にお会いし、尚亭のことをお話いただいた。

後列左より2人目 西田芳舟(大画)・後列右1人目 奥野河南
前列左より4人目 鈴木翠軒・前列右より4人目 山下是臣 

昭和7年8月、比田井天来は子息南谷先生を連れて、尚亭の見舞いに行っている。当時の事を書学院事務所で南谷先生に伺ったことがあった。

「僕がまだ高等工芸を卒業する前、天来と2人で大阪の川谷尚亭先生のお見舞いに行ったことがあってね。お昼を済ませて午後だったけど、尚亭先生が2階で休まれているというので、上がっていったんですよ。確かお菓子屋さんの2階でしたね。天来はまず尚亭先生の枕元に坐ってね、こうやって腕組みをしてね。話し始めると、尚亭先生が答える。僕は少し離れて坐っていたので、はっきりと何の話しをしていたか、よく聞きとれませんでしたけれどね。尚亭先生の『先生……』『先生……』という言葉は聞きとれるんですけどね。僕は天来と尚亭先生との遣り取りを聞いていて、この人たちは一体どういう関係なんだろうと思いましたよ。天来は尚亭先生の話に『うん…、うん…、』と頷く。しばらくすると、尚亭先生はまた『先生……』と話すんだ。

ずうっとそんな時間が過ぎてね、気が付いたらもう夕方なんですよ。いやあ、不思議な時間だったねえ。……」

この南谷先生のお話は、今もはっきり耳に残っている。

昭和8年1月29日朝、川谷尚亭は亡くなった。37歳11ヶ月のあまりにも短い生涯であった。病名は慢性気管カタル。葬儀は翌日1月30日に行われた。東京から比田井天来、鈴木翠軒が葬儀に駆け付けている。

『書之研究』3月号は「川谷尚亭追悼号」となっている。その中に、「川谷尚亭君を悼む」という比田井天来の追悼文が掲載されているので、最後にその一部を抜粋して紹介する。なお、尚亭亡き後の甲子書道会新会長には、鈴木翠軒が就任している。

尚亭君は大正以来の書道界に於いて稀に見る俊才であり、書道の各方面に亘りて實によく研究を盡くされた典型的學者であった。眞摯にして飾り氣のない高潔なる人格と熱烈にしてほ他人に一步も讓らざりし研究態度とは今猶眼前彷彿として君を見るが如く、室を隔て聲を聞くの思がある。吾人は之を忘れようとしても終生忘るることは出來ないであろう。

――中略――

尚亭君の書道に於ける鑑識眼は自分とその軌を同じくしていたから自分の道を繼いで呉れる人は斯人だと極めていた爲に、君の重患以來その死に至るまで如何に自分を落胆させ又如何に書道の前途に寂寥を感ぜしめたことであろう。自分は幸にして未だ子弟を亡くしたことはないが尚亭君に於てつくづくその苦痛を經験させられたのである。

上の掲載図版は「川谷尚亭先生之碑」。建碑は昭和15年、鈴木翠軒の書。「川谷尚亭建碑會」(代表・竹田津極山)によって建てられた。また、同年12月には尚亭より天来宛の書翰『意先筆後帖』(巻子本)が刊行された。

昭和8年7月、「尚亭先生遺墨刊行會」(代表・伊藤東海)より発行された『尚亭先生遺墨帖』の、右が鈴木翠軒書のなる題箋、左が伊藤東海書による扉。

最後はやはり川谷尚亭の名品を鑑賞していただきたいと思う。

左は「臨・孔侍中帖、憂懸帖」、川谷家蔵で、右は「臨・綾地切」堺市立博物館蔵である。

「臨・蘭亭序」。友人関口氏の蔵である。私がこの稿を草するに当たって、どうぞお使いください、と言ってくださった。連載中すでにいくつかの資料を図版として掲載させていただいている。御厚意に感謝申し上げたい。