渡邊沙鷗照影

渡邊沙鷗(文久3・1863~大正5・1916)は名古屋の人・近藤雪竹、丹羽海鶴、比田井天来と共に、日下部鳴鶴門下の四天王の一人と称されている。雪竹、海鶴とは同年生まれで天来より9歳年長にあたる。幼少9歳で書を学び始め、11歳の時、恒川宕谷に入門している。

その当時の頃から上京間もない頃までのことを、明治33年創刊の雑誌『筆之友』(書道奨励協会発行・高畑翠石主幹)に沙鷗自身が寄稿している。沙鷗の文章に触れる機会は少ないと思い、次に掲載することにした。要約すると、

私は尾州名古屋の出身で、書は11、2歳の頃から学んだ。その頃、名古屋に恒川という書家がいて、広大な道場を構えて書道の指南をしていた。日曜日などは何百人というお弟子たちが集まって、道場の広間に毛氈を敷いて稽古をやった。この人は名古屋市内の5、6の学校にも関係していて教鞭を取っていた。書家としても名を馳せていて、私はこの人に師事して書を学んだ。私は上達が早かったのかどうかは解らないが、4年程経つと、いまだ15歳の少年であるのに、多数の中から拔擢されて、先生の助教授に挙げられた。それからは、先生のお宅に起居して手伝うようになった。

その頃、門下の人たちは先生の書かれた手本を習うという習慣であったので、1週間に何百と言う手本を書かなければならなかった。そのため私は毎朝5時頃から起きて先生の手伝いをし、それから自分の学校へ通ういうことであった。夜は11時、1時頃まで仕事をするという状況で、たいへん苦学した。3年程経った頃、先生から養子になって自分の後を継いでくれないかという相談を受けた。しかし、私は長男であったため養子だけは断った。そして19歳まで助教授をつとめた。

それから田舎では何も面白くないので、是非東京に出たいと思い、三菱会社に入った。けれども東京勤務ではなく四日市支店詰にされてしまった。結果その間も恒川家に出入りして手伝いをしなければならなかった。

明治23年、やっと東京に出てくることができ、先づ最初に日下部鳴鶴先生を訪ねた。ただ三菱会社の務めの方が忙しく、時間がなくて思ったように書を学べなかった。鳴鶴先生の手本のようなものは、僅か10通ばかり書いていただいたに過ぎない。けれども時々先生を訪ねては、書道に関するご意見をお聞きすることができた。それが私の書道の進歩の上に少なからず益をなしている―(後略)―

渡邊沙鷗の作品を2点掲載して紹介する。右の作品は20年程前、角川版高校書道の教科書の副読本に掲載された作品。左は同文の作品が他に数種ある。この作品は天来家で書いたと思われるモノ。