2014年12月11日

青山霊園の石碑をめぐる

今回は東京・港区にある青山霊園に建つ石碑を紹介します。
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青山霊園は明治7年の開園。広大な敷地に無数の墓碑や石碑が建っていますが、維持する人がいなくなって無縁になりつつある碑も少なくありません。これらの中には近代日本の書道史を代表する名碑も数多く存在します。石碑は故人を偲ぶこと、そして刻まれている文字を書として鑑賞することに加えて、その社会のあり方を映し出す鏡のようなメディアでもあります。とくに青山霊園は明治の元勲や軍人が多く葬られており、近代日本のドラマが凝縮されたような場所です。そのような意味で、青山霊園を近代日本を読むための一冊の巨大な本として考えることもできるのではないでしょうか。
11月の連休の一日、大東書学院師範会の皆さんと石碑めぐりをしたので、そのおりのスナップとともに代表的な碑を見てみましょう。
公園入口(外苑前寄り)に近くにある石材店「鱸猛麟」は幕末から続く有名な石工さんで、「鱸」は出世魚にあやかった当て字です。日下部鳴鶴などからも指名されて石碑の彫りを担当したといわれます。なお基本的に碑面には名を記しているので、書家の号などとは異なる場合があります。
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◎最初は周囲を圧してひときわ目につく巨大な碑。
「野津鎮雄碑墓誌」日下部東作書(明治15)1種イ1号26側
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野津鎮雄は西南戦争などで戦った軍人です。霊園には「東京府知事松田道之墓標」(金井之恭書)など、巨大な顕彰碑が多くありますが、これは群を抜いて大きい。鳴鶴の書は顔真卿の風が強いもの。碑文末尾に「猛麟刻」と石工の名前が入っています。

◎そして日本近代書道史を代表する碑。
「大久保公神道碑」日下部東作書(建碑明治43)1種イ2号15-17側
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逆筆を多用した非常に緊張感のある書風で、いわゆる「六朝風」です。銅鋳碑で今も生々しい。鳴鶴は彦根藩士で、主君の大久保利通のもとで書記官を務めていましたが利通が暗殺されたことをきっかけに官を辞め書に専念したといわれます。墓所までの参道の入口に建てられるものを「神道碑」と呼びます。この碑の勅令が発せられたのは明治11年ですが、碑が成ったのは実際には大正になってからでした。


◎「佐川直諒墓誌」比田鴻井書(明治38)1種ロ4号6-7側
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小ぶりな碑ですが、晋唐風と行っていいのか、比田井天来の楷書です。佐川直諒は佐川官兵衛の子。日露戦争で戦死しており、天来は陸軍幼年学校の教授をしていた関係で揮毫したのでしょうか。

◎「桂陰棚谷先生曁継配久貝氏墓表」金井之恭書(明治17)1種ロ4号7側
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金井金洞による楷書。金井は勤王家として知られた人ですが、書記官を務め、「三島通庸神道碑」など霊園にも数多く石碑が残っています。これも顔真卿風です。棚谷桂陰は笠間藩の儒医で、朝川善庵に師事した人。

◎桂陰棚谷先生墓碣并叙」佐埜思明書(明治17)1種ロ4号7側
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おそらく棚谷桂陰の何代か前の儒医。青山霊園に並ぶ「これでもか」という楷書ばかり見ていると正直なところやや辟易してくるのですが、これは見飽きない、というのか温雅な美しい書です。個人的には霊園の中で一番の好み。

◎「郷家墓地」巖谷一六書ほか 1種イ7号10側
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郷家の墓域では複数の近代書家による書を見ることができます。墓基の側面に銘文が刻まれています。上から股野琢(藍田)・巖谷修(一六)による書。郷純造(上)は明治の大蔵官僚でした。

◎「磯林大尉碑」日下部東作書(明治19)1イ13号3側
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これもまた大きな碑です。残念ながら現在は無縁に近い状態ですが、鳴鶴の顔真卿風の書は完好な状態です。磯林真三は、竹橋騒動(明治11年に起こった近衛兵による反乱。西南戦争の論功行賞の遅れが原因とされる)の鎮圧に功があった人。霊園には反乱軍兵士らの鎮魂碑も存在し、青山霊園が近代日本の影の部分をも留めている場所ということがわかります。

◎「仏人治部輔氏墓標」大給恒書(明治21)外人墓地
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近代日本は多くの「お雇い外国人」を招いていました。目的はもちろん官僚制度、軍などに関わる技術や制度を整備するためです。そうした人々が霊園の中の「外国人墓地」に葬られています。デュ・ブスケ(治部輔)はフランスから招かれて陸軍の軍事顧問として来日した人です。日本人を娶って日本で亡くなっています。書を書いている大給恒は、陸軍総裁で、日本赤十字社の設立に貢献した人ですが、日本の勲章制度を整備した人として賞勲局の総裁にもなっています。日本の勲章はフランスをお手本にしていますが、これを助言したのがブスケでした。

◎「金玉均墓」李埈鎔書(明治37)外人墓地
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これも外国人墓地に建っています。金玉均は李氏朝鮮末期に明治維新に倣ってクーデター(甲申事件)を起こして日本に亡命した人物で、上海で暗殺されました。犬養毅・頭山満などが尽力してこの碑が建てられています。書は日本に住んだこともある李埈鎔による堂々とした楷書。

◎近藤芳樹碑(明治14)1種イ1号6側
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これは青山霊園のなかでも珍しい和文碑です。近藤芳樹は明倫館教授を務めた国学者。千蔭風の流麗な書は「守節」とあって吉田松陰門の岡守節ではないかと思いますが、はっきりしません。

◎「藤村操絶命辞碑」(明治36)1種イ1号4側
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日光の華厳の滝に投身自殺した藤村操が、滝の傍らの木に記した遺言「巌頭之感」を刻んだ碑。藤村操は一高で夏目漱石の生徒でした。破格ながら顔真卿の行書を連想します。

このように、青山霊園の碑は西南戦争~日清日露を経て、膨張に向かってひた走る近代日本の一種の装飾品として機能していたと言ってもいい部分があります。それにはのんびりした和様書などでは表象しきれず、明確に分節され緊張した楷書でなければならなかったということでしょう。「公」の文体である漢文と「公」の書体であった楷書も密接な関係を結んだはずです。当時の漢詩文の流行など関連づけても考えられるでしょう。

墓碑と近代日本を関連させて考える本は世に多いのですが(浦辺登『霊園から見た近代日本』弦書房という本もあります)、その言語表象であった「書」を関連させた論考をあまり見ません。
文人による墨堤=遊興の地から書記官による青山=政治の地へ…日本書道史は、東から西へと場所を変えながら近代化を完成させたと言っていいでしょうか。

書や書物をめぐって自由に書いてきましたが、このコラムはいったんお休みします。ご愛読ありがとうございました。

古賀弘幸
書と文字文化をフィールドにするフリー編集者。
http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/
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