2014年9月 8日

書を学ぶための書物(8)──詩歌のアンソロジー

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書を揮毫するときの詞華集として「墨場必携」というものがあります。

もともと幕末の唐様書家・市河米庵がその頃流行した「書画会」の席上で揮毫するための漢詩句や禅語などを集めたいわゆるアンチョコだったといわれますが、江戸期には数多くの墨場必携が編まれました。米庵の編んだ墨場必携は『新註墨場必携』(大文館書店、現在は木耳社刊)として活字化されていますし、江戸期に刊行されたさまざまの墨場必携も北川博邦編『定本墨場必携集成』(全5巻、雄山閣)としてまとめられています。
現在では歴代の書家の作品とともに紹介するものや、人気書家の作品を集めたもの、もちろん漢詩だけでなく和歌や俳句、翻訳詩や現代詩まで収めたものまで、膨大にと言ってもいいほどさまざまに出ています。それらをすべてチェックしているわけでもなく、書の揮毫の際に、「書きやすい詩歌」というものがあるものかどうか私には判然としないので、今回は私の個人的に好きな詩歌のアンソロジー・歳時記などを紹介することにします。これらの本はもちろん墨場必携としても使えると思います。その中から秋の歌句を中心に思いつくままにいくつか紹介してみましょう。個人的な好みに偏っているかとも思いますが、ご勘弁ください。まずは日本編から。

ただし、文芸作品を題材にした書作品を販売する場合や公募展に出品する場合、没後50年を経ていない作家の文学作品は、文芸家協会の許可を得なくてはいけないことになっています。
http://www.bungeika.or.jp/procedur.htm

●佐佐木幸綱・復本一郎編『名歌名句辞典』(三省堂)
よく考えられた構成で、あの句誰のだったっけ…などという時に重宝します。上代から現代までの和歌・短歌・俳諧・俳句・川柳・狂歌まで6186歌句を収載。詩歌の意味については「?」と思うものもありますが、とりあえずの理解には役立ちますし、類歌や本歌などにも触れた便利なものです。作者解説も簡潔で要を得ています。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

頭とはなんぞと問ふにジャコメッティ端的に応(いら)ふ胸の付け根(玉城徹)

名月に霧の流れる瓦かな(井上士朗)

彼の世より光をひいて天の川(石原八束)

●山本健吉『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)
季語というのはその語だけで、その実物を知らない人間にとっても一種何かを感じさせるような不思議なマジックのようなものなのですが、とにかく無数にあります。おそらく書の表現でも必ず季語の表現がポイントになるのではないかと思います。季語の考証を読んでいるだけでもいろいろな光景が広がります。数千の俳句が収録されています。

うつくしや障子の穴の天の川(小林一茶)

人は寝て籠の松虫啼きいでぬ(正岡子規)

胸中に文意煙れる残暑光(飯田龍太)

●高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫)
明治から戦後まで、佐佐木信綱から辰巳泰子まで105人を収録。現代短歌というのは、明朝体活字の字面を表現の基盤に置いているようなところがあると思うのですが(だから書に向いていないということを言っているのではありません)、俳句と違って「七七」が詠んだ「私」ののっぴきならない「声」を感じさせるところが魅力です。

剛毛の筆をしたたる墨滴の心言葉の先を歩むかな(安永蕗子)

よろこびの溢るるときに歌はむと夕野をゆきぬ月のぼるまで(前川佐美雄)

●平井照敏編『現代の俳句』(講談社学術文庫)
明治から戦後まで、高浜虚子から皆吉司まで107人を収録。時代を反映してか明るい句ばかりではありませんが、日本にこのような短詩があることはなにかホッとさせるものがあります。

秋浜に描きし大魚へ潮差し来(西東三鬼)

筆先に思いの乗らず竹の秋(原裕)

●大岡信著『折々のうた』(岩波新書)
言わずと知れた朝日新聞朝刊に連載されていた名コラム。新聞では6762回続いたということで、新書では全19巻になっています。早くから墨場必携として使われることも多かったといいます。本阿弥光悦が書いている近世初期の歌謡・隆達小歌などはこのコラムで知ったという人も多いでしょう。

鳥と鐘とは 思ひのたねよ とは思へども 人により候(隆達小歌)

真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞかべに消えゆく(永福門院)

個人集を少し取り上げます。

●尾形仂校注『蕪村俳句集』(岩波文庫)
この人の句の艶やかさと抒情は書にもっともふさわしいのではないかと思います。まるで溝口健二の映画でも見ているようです。

月天心貧しき町を通りけり(明和5)

蘭の香や菊よりくらき辺(ほと)りより(安永7)

●斎藤茂吉選『長塚節歌集』(岩波文庫)
私が近代歌人の中で最も好きな人です。特に明治40年代の歌はみな素晴らしい。手元にあるのは戦前の文庫本ですが、版面も好ましい。

馬追虫(うまおひ)の髭にそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひ見るべし

目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたる毬のつばらつばらに

●山口茂吉・芝歌稔・佐藤佐太郎編『斎藤茂吉歌集』(岩波文庫)
シンプルな言葉の組み合わせが作る抑制された深い叙情。

細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり(明治43)

黄になりて桜桃の葉のおつる音午後の日ざしに聞こゆるものを(昭和21)

硯の中に墨みづのかたまりが老いたる人の憂ひのごとし(昭和24)

古賀弘幸
書と文字文化をフィールドにするフリー編集者。
http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/
http://blog.livedoor.jp/gorge_analogue/

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