2014年7月 9日

書を学ぶための書物(6)──石碑をめぐる本

P7090239.JPG
今回は比較的肩のこらない本を紹介します。

書を学ぶための古典的な書は多く石碑に刻まれています。多くの人はその拓本を手本にして書を学んでいるはずですが、たとえば実際に西安の碑林でそうした古典的な碑と対面すると、ある意味では肉筆よりもその生々しさを感じることすらあります。西安碑林にしょっちゅう通うわけにもいきませんが、日本にも比較的近い過去の名碑をじかに感じることのできる場所があります。
たとえば東京の隅田川東岸の「墨堤」と呼ばれる地域。近くには東京スカイツリーが立ち、賑わっていますが、墨堤はそう人が多くありません。ところが近辺の寺社などには江戸末期から大正時代までの石碑が多く残されており、ガラスケース越しでなく、過去の名筆にじかに触れるには最適の場所なのです。そんな理屈は抜きにしても碑を見ながら散歩するのは楽しいものです。私にとっての無類の楽しみは墨堤で碑を見た帰りに、浅草で蕎麦屋でちょっと飲むことです。
谷中墓地、または青山園霊にも多くの碑を見ることができます。
こうした場所やお墓巡りに関心をもつ人が少ないわけではないのですが、「書」を鑑賞する、という目的で自社や墓地を歩いている人はそう多くありません。
しかしたとえば墨堤の三囲神社には大竹蒋塘の「菱湖先生之碑」があって、雁塔聖教序を彷彿とする美しい書です。碑面を痛めないように注意すれば、指で文字をなぞることも可能です。谷中霊園の近く全生庵には勝海舟「山岡鉄舟居士之賛」(碑陰は中林梧竹)があり、青山霊園には明治書道史の代表作である日下部鳴鶴「大久保公神道碑」があります。
こうした碑の解説書、ガイドブックを挙げてみましょう。

●駒井鵞静『全国書の名蹟めぐり』(雄山閣)
書家の駒井氏が全国の石碑が残されている場所や収蔵する美術館を実際に歩き、書蹟の紹介とていねいな解説をつけた本(編集は比田井和子さん)。特に東京の碑については詳細な地図とともに紹介されており、非常に役に立ちます。歴史的な考証だけではなく、書として碑が評価されているので、魅力がダイレクトに伝わります。博物館などの情報はやや古くなっているものもあります。東日本編と西日本編の2冊。西日本編では沖縄の焚字炉にも触れています(駒井氏は触れていませんがこれは「惜字」という中国の習俗に関連があります)。

●川浪惇史『江戸・東京 石碑を歩く』(心交社)
石碑を書的に見る、というテーマの関連書籍で近年出版されたものの中ではこれが一番ていねいです。駒井本にない情報も多く、有用です。なぜか谷中墓地に触れられていないのが惜しい。天来書院のサイトにも23回にわたって都内の碑が紹介されていますから、まずはこちらから。本にない情報や写真も満載。

●中西慶爾『訪碑紀行』(木耳社)
こうした近世~近代書道史に残る石碑の建碑の経緯や周辺の事柄に触れた随筆です。ゆったりとした筆致ですが、釈文や関連文献も多く引いてあり、書を入り口にして歴史を覗こうという人には役に立ちます。全3冊。

こうした碑の釈文について主なものとして、

●佐藤平次郎編輯『明治碑文集』(明治20年代出版)
があります。碑の場所も目次も索引もないので、使いやすいとはいえませんが、貴重な文献です。全4冊ですが、あまり揃いで出てきません。

●『墨田区文化財調査報告書』(墨田区教育委員会)
墨堤の碑であればこれは必須の資料です。ていねいな訓読と人名や用語の解説もあって、重宝します。他の区ではこうしたていねいな資料もあまり見ません。ただ、風化が進む肝心の碑の保存が手厚いとはあまり言えないようです…。漢文の石碑、仮名交じりの石碑と分けて9冊出ているようです。

石碑は石に刻まれた文字を研究する金石学に関わってきます。そうした興味からは、こんな研究もあります。

●日本石造文化学会編『石造文化』(日本習字普及協会)
横山淳一氏の主宰する研究会の研究報告書。石工の列伝や拓本技法にも触れられています。

石碑に対して、歴史的な関心をテーマにした本も出ています。特に東京は幕末、明治史に関する碑が残っていますから、愛好する人も多いようです。

●小栗結一『掃苔しましょう』(集英社新書)
谷中、染井霊園、護国寺、青山霊園、伝通院を回ってそこにまつられている人々を紹介しながら歴史のエピソードをひもとく一冊。「掃苔 苔をはらう」というのはお墓に参り、その人の事跡に思いをいたすこと。昔から掃苔はひとつの文人趣味のようなものでした。

●一坂太郎『幕末歴史散歩』(中公新書)
著者は「東京は幕末のテーマパークだ」といっています。幕末・維新期の人物群像としても読むことができます。

●『吉村昭追悼 彰義隊とあらかわの幕末』(荒川ふるさと文化館)
彰義隊関連の歴史資料の展示図録。
この一連の資料の一つとして、南千住の円通寺には彰義隊など旧幕臣の墓碑が多く残されていて、書的な興味は惹かないかもしれませんが、幕末史の一断面を見ることができます。

●古賀牧人『石に刻まれた江戸・武蔵』(けやき出版)
武蔵野まで足を伸ばして石碑から歴史を見る。顕彰碑などだけではなく、習俗や災害や飢饉などを記した石碑まで取り上げているのが興味深いところ。

●上村瑛『大江戸文人戒名考』(原書房)
「戒名」に焦点を当ててそこから江戸・明治の文人たちの人間ドラマを読むユニークな本。

●廣瀨裕之『刻された書と石の記憶』(武蔵野大学出版会)
武蔵野の石碑(国木田独歩詩碑など)に刻まれた、石碑の「書」と「刻」と「石」を詳細に読み解くことを通じて石碑からなにが読み取れるかをテーマにしたなかなかに興味深い本です。近代の文学碑を取り上げていますが、ある意味で社会学的なアプローチとも言えるでしょうか。こうした試みがもっとあってもいいと思います。

古賀弘幸
書と文字文化をフィールドにするフリー編集者。
http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/
http://blog.livedoor.jp/gorge_analogue/

tenrai_2014_07.jpg

同じカテゴリの記事一覧