2008年7月 1日

第17回 目黒不動・瀧泉寺の碑



(図1)春洞西川先生碑

 門前町の面影を残す路地を抜けると、目黒不動瀧泉寺の仁王門が現れる。門前の狛犬の台座には奉献の文字が刻まれ文久2年の紀年があった。ここ目黒不動 は、徳川家光が江戸鎮護のために置いた、五色不動の一つとして栄え、寛永年間には五十余坊の大伽藍をそなえていたと言われる。門をくぐり境内に入ると、 「春洞西川先生碑」(図1)が目に飛び込んでくる。本堂へ通じる石段(男坂)の右側に碑は位置する。隷書の題は、豊道春海の手になるもので、碑陰記(図 2)に「大正十年八月 門人武田白謹撰 豊道慶中謹書」とある。発起人には武田霞洞、豊道春海、諸井春畦、中村春坡、諸井華畦、岩楯春梢、安本春湖、花房 雲山の高弟八名が名を連ねる。


(図2)春洞碑碑陰

 男坂左手には独鈷の瀧がある。慈覚大師が独鈷杵を地面に突き刺すと瀧泉が湧きだしたという伝説の瀧である。池の石垣に「慧光照無量」(図3)と篆書で彫 られた刻石があり、「明治四十年六月寄附 春湖安本孝和拝書 木部松鶴刻」とあった。これも春洞の高弟の書である。春湖は、三楽道人の別号があり書道作振 会常務理事などを務めた。


(図3)慧光照無量

 瀧の左手の植え込みの中に大きな碑がある。「昆陽青木先生碑銘」(図4・図5)である。碑陽に「辻新次篆額 大槻文彦撰 野邨素介書 加藤大巌巌齋刻 立」とある。野邨は素軒と号し、文部書博物局長、貴族院議員をなどを歴任、書は小島成齋に師事し、勅撰の「木戸公神道碑」「毛利公神道碑」などを揮毫して いる。碑陰記には、西脇静書とあった。静は西脇呉石の名である。呉石は、村田海石に師事し、文化書道会を主宰した。碑の隣には明治三十一年に建てられた 「甘藷講碑」があり、瀧泉寺裏手の墓地には昆陽の墓がある。この墓は、生前に建てられた壽蔵碑で、墓表は「甘藷先生墓」、左側面に自撰の銘文が刻まれてい る(図6)。書も本人のものであろうか「享保二十年 青木敦書蒙命種甘藷 因人呼予曰甘藷先生 甘藷流傳 使天下無饑人 是予願也 今作壽塚 書石曰甘藷 先生墓」とある。右側には、「君諱敦書.........明和六年巳丑十月二日終......」とあるから、これは没後に刻したものと思われる。昆陽は元禄十一年に生まれ七十 二歳で歿した。


(図4)昆陽青木先生碑銘


(図5)昆陽碑字


 このほかにも境内には多くの碑刻がある。「青木先生碑銘」のある一角には「千家華塚」と隷書で書かれた文化十四年の碑、漢字かな交じり文の「北一輝先生 碑」(大川周明撰、玄林武田悔書。昭和三十三年建)、十五夜お月さんの五線譜を刻した「本居長世歌碑」。「春洞碑」のある一角には、行草碑の「市川先生退 筆塚」、「刷毛筆供養塔」。阿弥陀堂の前庭には「秀農鈴木久太夫碑」(明治二十四年建、能久親王篆額、内務大臣品川彌二郎撰文、衣笠豪谷書)がある。石段 を登った左手の瀧上には「独股霊泉碑」(明治四十四年建)、本堂右手の丘には「八大童子建設記念碑」(大正十一年建、梅庵丸尾静書)、本堂裏手には「大日 如来遷座供養碑」(昭和四年建)などがある。ほかにも、役行者の別名、「神變大菩薩」と刻んだ寛政年間の奉納碑や、「愛染明王供養塔」などの石刻が林立し ている。


(図6)甘藷先生墓側

 帰り際に仁王門のそばに野村宗十郎の銅像を発見した。石ばかり探していたので見過ごしていたのである。野村宗十郎は我が国の印刷技術の泰斗であるとい う。何となく銘文の書(図7)に鵬齋の匂いを感じ銅板の末尾を観ると「昭和五年六月 亀田雲鵬書 堀進二作像 遠藤隆吉記」とあった。雲鵬を知らないが きっと鵬齋の裔なのであろう。画家とも聞く。


(図7)野村宗十郎銅像銘

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