2008年6月 1日

第16回 豊道春海と五反田の碑



(図1)雉神社

雉神社の立石翁碑
 桜田通りを高輪台から五反田方面に歩くと左側に雉神社(品川区東五反田1-2-33)がある。道路に沿って鳥居と植え込みがあるのですぐ解る(図1)。 縁起を書いた案内板には、「雉の宮」を詠んだ酒井抱一の句や加藤千浪の歌が記され、江戸時代から賑わった様子が書かれている。植え込みにあるやや大きな碑 は、国道からもよく見え、肖像と共に大振りな楷書で碑文が刻まれている。「立石知満翁頌徳碑」(図2・図3)である。

(図2・3)立石翁碑
立石翁は碑文に拠ると東京城南地区の振興に功績のあった人のようである。碑陰(図4)によると昭和32年(1957)に建てられた比較的新しい碑である。日本芸術院会員豊道春海書丹と刻されている。

(図4)立石翁碑々陰
 豊道春海(1878〜1970)は、幼少より僧籍に入り明治23年(1990)には浅草華徳院の住職となり、昭和37年(1962)には天台宗大僧正に のぼった高僧である。書は、明治24年(1891)より西川春洞の門に入り、大正3年(1914)に瑞雲書道会を興した。戦後は、昭和22年(1947) に帝国芸術院会員となり、「日展」五科(書)の新設や、小中学校の毛筆習字復活に尽力、昭和42年(1967)には書道界初の文化功労者に選ばれている。 春海大僧正の寺は、東急線「不動前」駅近くの行元寺で、ここから歩いても15分〜20分ほどの所である。このためか、五反田から目黒一帯の寺には、彼の揮 毫したものが多く残されている。
 雉神社の境内は、ビルの吹き抜けのようになっていて、壁に面して「紀念碑」(図5)が建っている。昭和20年(1945)に建てられたもので、放射14 号線の改修による鳥居新造を記念したもののようだ。碑が壁に接しているため碑陰を見ることが出来ず書者等は解らない。ほかに、大正12年建立の「奉納記念 碑」なども見られ、ビルと一体となった神社の改築に際し、石碑などを残す苦心のほどがうかがわれる。


(図5)紀念碑
行元寺の大震災横死者供養塔
 東急線「不動前」駅から、目黒不動尊に続く道を行くと「かむろ坂」に出る。右に曲がり、坂を少し下ると左に行元寺(西五反田4-9-10)がある。入り 口は住宅に入る通路のようで、うっかりすると見落としてしまう。実際私も通り過ぎてしまい、寺を探したがそのような建物は無くぐるぐる辺りを探し回ってし まったほどである。やや大きな邸宅へ続く通路のようになった所に、石碑や石仏、供養塔などが林立している(図6)。

(図6)行元寺
連 載2回目に紹介した、「仇討ち隠語の碑」の奥、門の前に「大震災横死者供養塔」(図7)がある。仏像の台座の部分に、隷書の題とともにぐるりと春海揮毫の 銘文(図8・9・10)が楷書で刻まれている。「大正十四年五月一日 行元寺十七世沙門豊道慶中識 井亀泉刻」と末尾に刻まれ、かっちりとした楷書だが恬 然とした雰囲気がある。この寺は、元々は神楽坂にあった大きな寺で、明治40年(1907)にここに移転し、跡地の一部は新宿区の公園になっているよう だ。


(図7)大震災横死者供養塔






(図8・9・10)銘文

安養院の石標
 目黒不動尊の参道を進むと、右側に安養院(西五反田4−12−1)がある。延宝3年1675)建立という巨大な「念仏供養塔」などを見ながら境内を抜け ると。江戸時代建造の山門がある。仰ぎ見ると「寺号額」(図11・12)には、「七十八翁支那獨湛」とあった。獨湛は、黄檗第四代住持獨湛性瑩 (1627〜1706)。隠元禅師と共に明代中国より来日した僧で、書画にも優れた。古びた趣がまた、風韻を感じさせる題額であった。享保など、江戸期の 石仏が並ぶ参道を商店街へ出ると入り口に石標 がある(図13・14)。表に「安養院」の寺号、裏に「豊道慶中書」とあった。寺標はのびのびとした行書なのだが、赤いペンキが趣を殺いでしまってもった いない。




(図11・12)寺号額


(図13・14)石標(碑陽・碑陰)

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