古碑帖の正確な見方

筒井茂徳(書法家)

第十回上 篆書の名品 鄧石如書 白氏草堂記を習う

2021.03.15

この連載は書法に関する総論から始め、それを各書体の代表的な作品を臨書するために、どのように利用すればよいかという説明をしてきました。そうしていよいよ篆書を扱うところに来ました。篆、隷、楷、行、草の五体のうち最も古い書体である篆書を最後に習うことにしたのは、単に最もなじみが少ない書体であるからです。現代の日常生活で篆書を目にする機会はほとんどなく、あるいは判子(はんこ)の中でかろうじて生きながらえているのかも知れません。その判子の命運も危うくなりそうな昨今です。

篆書は紀元前千三百年頃に生まれた甲骨文から金文を経て、秦の始皇帝の時代に成立した小篆に至ります。その小篆の典型が「泰山刻石」(たいざんこくせき)であり、現代では残石十字が伝わるのみですが、「史記」始皇本紀には全文二百二十二字が記録されています。篆書は漢代に標準書体としての位置を隷書に譲ります。

その後、篆書を唐代に復興した書人もありましたが、藝術的な表現としてみごとに復活させたのは清代中期の鄧石如(とうせきじょ)でした。鄧の幅広い篆書の臨書研究は記録にも残っており、その中には当然、泰山刻石も含まれていました。ここではやはり肉筆の作品が伝わる鄧石如の「白氏草堂記」(はくしそうどうき)を先に学び、ついで泰山刻石に遡(さかのぼ)ることにします。次に泰山刻石(百六十五字本)、白氏草堂記それぞれの巻頭六字部分を示します(字の配列は並べ替えてあります)。泰山刻石 鄧石如わたくしは学生時代に町田甲一先生に美術史をお習いしましたが、その最初の講義で、古代美術の特徴として「正面性の法則」と「horror vacui〈ホッロル ウァクイ〉」(空間恐怖)という概念を教わり、篆書の姿を頭に浮かべて妙に納得したことがありました。正面性の法則とは、古代エジプトやアルカイック期ギリシアの古代彫像は正面を向いており、垂直の中心線を軸として厳密に左右対称であるということです。また空間恐怖というのは空間を埋め尽くそうとすることで、篆書にあてはめると、一字の内部の空間を筆画で埋めようとすると解釈できそうです。上の図版では、なるほど泰山刻石の「皇」「帝」「立」、白氏草堂記の「南」「夾」の字に正面性が確認され、泰山刻石の「臨」「作」、白氏草堂記の「抵」「澗」などに空間恐怖が見られるような気がしますが、いかがでしょうか。

このほかの篆書の書法をかいつまんで説明します。
・縦画が主調であり、長い縦画に引かれて概形は縦長に作るのが基本である。隷書の逆。
・横画は水平、縦画は垂直である。
・筆画は横画、縦画、斜画を問わず、一定の太さの針金のように作る。筆画の適切な太さについては、第三回下の説明を参照。
・筆画の起筆部では、筆はほぼ垂直に立て(直筆)、逆筆(筆画の進行方向の逆方向から筆を入れる)で小さくひと巻きして円く折り返して起筆し、穂先を露わにしない(蔵鋒〈ぞうほう〉)。
・筆画の送筆部では、穂先は常に筆画の中央部を通り(中鋒〈ちゅうほう〉)、太細の変化をつけずに、一定のゆっくりした速度で運ぶ。
・筆画の収筆部では、押さえずに静かに持ち上げるのが原則である。実際の表現では、送筆部から次第に筆圧をかけていって強く止めたり、逆に筆を閉じながら細く抜くこともある。
・転折部では針金を折り曲げるように方向転換する。
・筆画の接続部では筆画は深く入って完全に接続し(下図参照)、微妙に接したりしない。
・筆画と筆画との間の空間は、広すぎるところや狭すぎるところが無く、均しくそろって見えるように筆画の配置を工夫する。
・文字全体は冷たい針金細工のように無表情であり、静止的であり、幾何図形的である。
・以上を実現するには、筆画と空間の配分を合理的に処理できる知性と息を殺して筆を運ぶ慎重さを要する。

白氏草堂記に見える「古」「不」「知」字の運筆の要領を下図に示しました。
鄧石如筆画同士はこの三図に見るように深く接続します。筆順は楷書に準じ(左から右へ、上から下へ)、適宜、字体に従って、書きやすい順に改めます。「不」で言うと、上図の第二画を縦画と横画に分け、第二画の縦画、第三画、第二画の横画の順に書いても構いません。別に、第二画の縦画から続けて横画の途中まで書き、第三画として縦画を書いて左に回折し、前画の横画部に流し込むように接続する書き方も可能です(つなぎ目が見えないようにする)。また「不」の下部のような字形は、中央の縦画を先に書く方が書きやすく、形を整えやすいものです。「知」の偏の上部も縦画から始める方が書きやすい。旁の「口」では、第七画を下の横画の途中まで書き、第八画を縦画の下端から左に曲がって流し込んでいます。そして最後に上の第九画を書いています。

次に鄧石如「白氏草堂記」から連続する四字「不知其名」(其の名を知らず)の箇所を選び、半紙四字書きの形式に配列した手本を掲げます。「不」「知」の筆順は上に記しました。「其」は上から下へと書けばよく、中央部は四角を書いてから斜画を書きます。「名」の第一画は頭部の短い右下方への筆画を書いてのち、方向を左下方に転じます(分かりにくければ、下の各字解説に分解図を載せてありますのでご覧ください)。

できれば筆を執って練習してみましょう。半紙は四つに折り、ゆっくり丁寧に臨書してみることです。智力と意志によるコントロールが第一です。一枚を書くたびに半紙を裏返してみると、水平、垂直がどの程度できているかが確認できます。

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練習後、赤の水性サインペン等で概形枠を記入し、ついで気になる箇所に補助線を引き、また接続、交叉の地点にポイントを打ってみましょう。この作業を通して、手本と自分の練習作品とがどこが違うかを図形的にチェックすることができます。違いさえ分かれば、その違いが無くなるように練習すればよいわけです。次に、概形枠及び一般的に有効な補助線等を加えた参考図版を示し、さらにそれぞれの字について説明をします。

鄧石如

「不」
鄧石如横画は水平、縦画は垂直、そして左右対称を心がけます。その成否は裏返してみると一目瞭然です。下部の左下方、右下方への斜画の曲がり具合を同様にすることは最も難しく、裏返してみると、ふつう左肩が上がつて見えるものです。これは無意識に右肩上がりに書いているからです。表から見ても裏から見ても同様に見えるようになることを目ざして練習しましょう。また概形はかなり縦長です。正確には縦横の長さを計って比率を数字で出してみれば、どの程度の縦長であるかははっきりします。横画を短くすること、縦画を長くすること、この両面から考える必要があります。

「知」
鄧石如偏と旁の高さの関係を正確に知るために、旁の第一画起筆部を通る水平線と、旁の下端を通る水平線を補助線として設定しました。偏の第一画と第二画との間の空間、また第一画と第三画との間の空間が狭くならないように注意しましょう。第五画と第六画との間の空間についても同様です。

「其」
鄧石如
鄧石如第三画からの四角は左の縦画、上の横画から右の縦画へ、下の横画の順の三画で書いてあるようです。四角の中の斜画の交叉は右上から書いても、左上から書いても構いませんが、四角との間の四つの空間がほぼ均しく見えるようにする必要があります。下端の二本の斜画は起筆部がすぐ上の横画とぎりぎりのところで接しないように気を配りましょう。

「名」
鄧石如概形はかなりの縦長で、第一画、第二画の左下方への斜画を思い切って長く書くことが必要です。第一画と第二画が接続する地点に赤の点を打ち、その点を通る垂線を補助線として引きました。横の補助線は、「口」の第一画の起筆部を通る水平線です。左上部の「夕」と右下部の「口」との位置関係が難しいのですが、縦、横の補助線を参考にすると手がかりがつかめるだろうと思います。


次週の第十回下では泰山刻石の最初の四字「皇帝臨立(位)」を扱います。

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