古碑帖の正確な見方

筒井茂徳(書法家)

第九回上 「隷書の名品 呉熙載書文語横披を習う」

2021.03.01

書体は篆書、隷書、楷書、行書、草書の五体に大分されますが、このうち篆書、隷書、楷書は標準書体であり、行書、草書は補助書体です。隷書は時代的に篆書と楷書の両方にはさまれているだけに、その両書体の中間的な特徴を持っているとも言えます。

今回扱う隷書は、時代的には古代の秦の始皇帝の時代に生まれ、漢代に発達し、完成しました。その後、標準書体の位置を楷書に譲るとともに振るわなくなりましたが、近代の清代に至って藝術的にみごとに再生します。そこでここでは漢代の隷書の黄金時代の名品「史晨碑〈ししんひ〉」と、清代の呉熙載(ごきさい。呉譲之とも)の「文語横披〈ぶんごおうひ〉」を習うことにします(後注)。両作品の姿を見るために最初の9字分の図版を次に載せます。左が呉熙載、右が史晨碑です。

まずこの両図版によって隷書の特徴を大づかみにしておきましょう。各字の概形は楷書に比べて横長であり(たとえば左の図版の三行目「山」や右の図版の二行目「月」)、章法(字配り)は行間に対し字間を広く空け、横の段は文字の頭の高さをほぼ揃(そろ)えてあります(頭揃え)。

さらに各字は水平、垂直に立っているように見えると思います。各字が右上がりで、中心の背骨がやや右下方を向いている楷書や行書、草書と大きく異なる点です。

図版が小さいので筆画の細部は見にくいのですが、起筆部は楷書、行書、草書のような鋭くとがったところはなく、どちらかと言えば丸味を帯びていることもお気づきかも知れません。

さて、この第九回上では時代が前の史晨碑ではなく、真跡であるだけに筆画の細部がよく見える呉熙載書「文語横披」から始めます。初めて隷書を学ぶ人も少なくないと思われますので、用筆(筆遣い)の説明が中心になります。

隷書の最も重要な特徴はあらゆる筆画が波勢(はせい)といううねりを帯びることです。つまり棒切れのような単なる直線にはならないのです。概念図によって波勢を示します。青い線は波が左から右へ押し寄せているさまで、波勢Aは波の高いところの形、波勢Bは波の谷間の形とします。今、図では横画の波勢になっていますが、縦画であろうと斜画であろうと同様のうねりを帯びるとお考え下さい。最初に挙げた二つの図版の文字について、波勢を観察してみましょう。よく見ると、直線に見える筆画でも、実は微妙な波勢を帯びていることが分かるはずです。では波勢Bの横画はどこにあるでしょうか。小さな図版で恐縮ですが、呉熙載ではたとえば「壽」(寿)の第三横画にそれがあり、史晨碑では「二」の第一横画、「年」の第一横画、「三」の第一横画がそうです。

のみならず、一つの筆画にこの波勢A、波勢Bを組み合わせて使う場合もあります。たとえば史晨碑の「年」の第二横画は、中心線の縦画の左の部分も右の部分も波勢Aになっています。つまり波勢Aプラス波勢Aの横画に書いているのです。

では縦画はどうでしょうか。上の「波勢」概念図を頭の中で九十度右に回転し、右回りの波勢A’と左回りの波勢B’とを想定してみましょう。すると、呉熙載の「壽」の中央の縦画はS字状に見えますね。つまり波勢B’プラス波勢A’に作ってあり、史晨碑の「建」の旁の縦画も微妙ながら同様に書いています。
さて、この波勢Aは一字の中の最も重要な横方向の筆画では、うねりを右斜め上に払い出す形を取ります。初めに挙げた図で見ると、史晨碑の「二」「年」「三」「癸」の一番下の横画は収筆部を右に払い出しています。呉熙載の「陽」「游」「壽」の横画にもありますね。この払い出す部分を波発(ははつ)とか波磔(はたく)と言い、概念図で示すと次の図のようになります。そしてこの波発は一字に一箇所しか書きません。最も重要な筆画だけに波発を表すのです。このことを「一字一波」と言います。ところで、隷書の各字は水平であると説明しましたが、これは一字全体の姿が水平に見えるように書くということで、それぞれの横画は波勢を含んだ右上がりに書くこともあれば、水平はもちろん、右下がりに書くこともあります。波発は文字の右方に重いアクセントを置くことになりますから、しばしばその前の横画を右上がりに作り、波発とセットで水平にバランスを取ろうとすることは決して珍しいことではありません。呉熙載の「陽」「永」「長」「壽」の直前の横画、史晨碑では「建」「年」における波発のすぐ上方の横画にそうした右上がりが見られます。

続いて隷書の用筆(筆遣い)の骨法を、図をまじえて一通り説明します。隷書はあらゆる筆画を逆筆で起筆し、波勢を帯びて運び、収筆部ではすっと筆を紙から浮かせるのが基本です。逆筆で起筆するには、横画の場合は左方向に筆を入れて一巻きして折り返します。こうすると筆の穂先は筆画の中におさまり(蔵鋒)、筆画の中心部あたりを通ります(中鋒)。その結果、筆画は厚みを感じさせるものになるわけです。

隷書の用筆で注意を要するのは、右肩の転折部です。楷書とは異なり、横画を書いた後に、筆を改めて縦画を書いてくっつけるのです。これを模型的に示すと、次の図のように二通りのやり方があります。
そして、これを骨法で示すと、次のようになります。

この四通りのどれを使うかは、臨書の際に手本の表現を熟視することにより、たいてい判断がつきます。

波発の骨法は次の図の通りで、作例として呉熙載と史晨碑の波発をその下に示します。
起筆部では左下に筆を入れ、一巻きして右上方に返します。そして、やや右上がりに吊(つ)り気味に運んでゆき、横画のトップの地点から右下方に筆圧を加えていって、ぐっと筆圧を加えると、筆毛は拡がると同時に反発してジャンプしようとします。その瞬間に右上方に筆を浮かせると、筆は閉じて波発が完成します。一画の前半は右上がり、後半は右下がりになっていて、全体としては水平になるのが原則です。練習したら、半紙を裏返してみましょう。裏から見て右下がりに見える場合、表は右上がりになっているのです。

隷書の結構の特色については第九回下でふれることにして、次に呉熙載の「文語横披」の六字書きの手本を載せます。この六字は「界以青松朱扉」(界するに青松朱扉を以てす)と書いてあります。できれば上記の説明を頭に入れて半紙に練習してみましょう。

筆順について簡単に触れておきましょう。「界」の下部は、左上の左払い、中央の縦画、二つ目の左払い、右払いの順です。「青」の上部は、三横画を先に書き、次いで中心の縦画の順に書く方が書きやすいはずです。ほかの字は楷書と同様に書いて間違いありません。

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練習作品が出来れば、まず裏返してみましょう。各字がそれぞれほぼ水平に見えるかをチェックします。裏から見て右下がりに見える字は、無意識に右上がりに書いてしまったからです。次に作品と手本の各字に概形枠を記し、さらに気になるところに補助線や接続、交叉のポイントを打ってみることです。こうした作業を経ると、手本との相違、自分の弱点が浮かび上がってくると思います。あとはその相違を無くすように、さらに練習を重ねるのです。

次に一般的に有効性の高い参考図版を載せ、各字について説明を加えます。

「界」
上の中央は説文篆文(せつもんてんぶん)、右は集王聖教序です。隷書は篆書を承けており、隷書の省略体である行書からも筆順を読み取ることができます。概形は正方形。「田」の横画が右上がりになっているのは、最終画の右払いとバランスを取るためです。また空間がつぶれないように、太細の表現などに細かい神経が働いていることにも留意したいものです。

「以」
右上に史晨碑の同じ字を挙げておきました。偏と旁の高低の配置を逆にしてあり、隷書の結構(形の組み立て方)を考えるヒントになります。呉熙載は頭揃えに作ってあります。概形はたいへん横長です。

「青」

概形はほぼ正方形です。青の補助線はここでは第二横画の収筆部を通る垂線として設定してあり、下部の右の縦画との関係が分かります。上部の三横画の間の空間、また下部の三横画の間の空間を狭く、しかも正確に等間隔に空け、整然としたたたずまいを演出しています。

「松」
旁の上部の二点は筆を突っ込み気味に逆筆で起筆し、左回りに筆圧をかけて右方に筆を小さく払っています。右の点を大きくしてあるのは、木偏の右上がりの横画と、また第三画の収筆部とのバランスを取るためです。偏と旁とは頭揃えにし、旁を短くして下方を意識的に広く空けてあります。この結構の問題については第九回下で触れます。

「朱」
第一画は逆筆で筆を入れて左回りに筆圧をかけ、そのまま右上方に吊り上げながら右回りに横画の左半分を書いて、縦画と交わる地点からやや太くしています。第二横画の前半部を右上がりに書いているのは上方の筆画との間の空間をつぶさないためです。この右上がりは、すぐ下の左払いとともに最終画の長い右払いとバランスします。

「扉」
概形はかなり横長で、左上部「戸」の左下への筆画を長く書く必要があります。「戸」の三横画の間の狭い空間をつぶさないようにします。「非」の左右の横画は、上段、中段、下段それぞれつながって波勢を感じさせるように書いてあります。青い補助線に注意すると、形を正確に把握する手助けになると思います。

次の第九回下では漢代の「史晨碑」を取り上げます。

後注
数多い漢隷の名品の中でも史晨碑は表現が穏和で整っており、拓本の文字も比較的によく見えるという点で、隷書の入門には特にふさわしい作品です。人目を引く派手なパフォーマンスこそ無く、地味ですが、隷書らしい自然な波勢としっかりした骨格を学ぶことができます。
清代には鄧石如(とうせきじょ)を初めとして隷書の名家が少なくありません。なかでも呉熙載の隷書は書法に無理がなく、かつ都会的な清新さを感じさせるものがありますので、やはりここから入ることをお勧めしたいと思って選びました。
今回は取り上げませんでしたが、漢代の木簡にも字数は少ないながら美しい漢隸の姿を見せる優品があり、漢代の人の肉筆であるだけに筆の跡をよく見ることができます。そうした肉筆を見た目で漢隷の拓本の表現を見直すことは、たいへん意味のあることです。

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