古碑帖の正確な見方

筒井茂徳(書法家)

第六回下「行書の名品 風信帖を習う」その2

2021.01.25

今回は空海の手紙「風信帖」第一通の中から、連続する六字を半紙六字書きに配列した手本を学びます。これは真言宗を開いた空海が天台宗の開祖である最澄に宛てた返信の初めの方に書かれた一節です。「兼恵止観妙門」(兼ねて止観の妙門を恵まる)とは、「(御手紙と)あわせて天台宗の典籍を頂戴しました」という意味のようです。

まず図版を掲げ、次いで練習しやすいように字体と筆順の簡単な説明をしておきます。

∇お手本ダウンロード∇

「兼」のこの字体は活字体(篆書に従った字体)とはかなり異なっています。漢代の隷書の時代に、第三横画を短く、また下部を四点に書く字体が出来、行書、草書、楷書はその字体に従う姿が通例になったのでした。

「恵」は下の図解のように中心の縦画を最後に書きます。後でまた説明します。

「観」(觀)は偏の上部を鍋蓋(なべぶた)+二つの口に書く字体が漢代の隷書の時代に出来ました。草書はその省略形になっています。左右の口をそれぞれ一つの点に省略するとこんな形になります。

「門」は左から右へと書いてゆきます。

ここに書かれた文字の筆画また筆順はこれで分かると思います。手本はお持ちのデヴァイス上で見ることもできますし、ダウンロードして印刷することも可能です。できれば実際に筆を執って練習し、総論で説明した概形枠を手本および自分の練習作品に書き込んでみましょう。さらに見当をつけて任意の補助線を書き込んでみると、おそらく両者の相違がありありと浮かび上がってくるのではないでしょうか。その相違が認識できれば、再び練習し、相違が無くなるように努めましょう。

次の図版は手本に概形枠と一般的な補助線、そして注目すべき交叉地点などにポイントを打ったものです。自分の練習作品と比べてみてください。そしてさらなる発見があれば、また練習を重ねましょう。

なおこの六字で特に注意すべきことは、いずれも傾きが顕著であり、五字の概形がかなり縦長であることです。

「兼」
姿勢(傾き)を決める要因は中央の二縦画と重畳法です。中央左の縦画は一貫して右下方を向き、中央右の縦画はトップから第三横画と交わるまで右下方を向いてゐます。重畳法は分かりにくいかも知れませんが、右上の部分概形の図において、最上部の概形枠よりも最下部の概形枠の方が右寄りに在ることに注目します。下端は初めの筆順の説明の際に挙げた二つの図版(居延漢簡と楽毅論)に見る四点を三点の連続として書いたものです。概形はかなり縦長で、これを実現するには横方向の筆画を短めに、縦方向の筆画を長めに作る必要があります。

「恵」
概形はかなり縦長であり、左上部の広大さが目立ちます。中心の縦画は明らかに右下方に向かっており、さらに重畳法を露骨なまでに用いています。行書ではしばしば筆意をたどることによって筆順が明らかになる場合があります。この字では「心」の最終画を左上に撥(は)ね上げているところから、縦画を最後に書いていることが分かるわけです。風信帖にもう一箇所、現れる「恵」字を右上に載せました。ここでも中心の縦画を最後に書いてあります。

「止」
「止」字の筆順は古くから二通りあり、ここではそのどちらの筆順で書かれているかを断定することは困難です。つまり短横画から始めた可能性と、中心の縦画から始めた可能性との両方があり得ます。ただ筆画の姿から判断すると、中心の縦画の起筆部が意識的にかっちりと丁寧に書かれていることから、これが第一画であり、その収筆部から上方に折り返して右の短横画を書いた可能性が高いであろうと私は考えています。この縦画は明らかに右下方に向かっていること、また赤い点を打った地点の位置に注意しましょう。最終画は転折部で強い右上がりで折り返し、縦画と接するところから方向を右横に転じます。

「観」
縦、横の補助線で囲まれた左上部の大きさに注目します。赤の点は縦画の上端と下端で、縦画が明らかに右下方に向かっていることが分かります。旁の「見」の左払いは中途でわずかながら方向が変わっています。概形はかなりの縦長です。

「妙」
概形は特に縦長です。この字には方向を転ずる箇所が四箇所あります。女偏の左下部は一端左上方へ向かってすぐ急激に右上方へ向かいます。旁の縦画は右下方へ向かって下ろし、女偏の第一画の収筆部とほぼ同じ高さのところから突然左に撥(は)ね(角張った転換になっている)、そして偏全体の収筆部の下方でいったん左下に押さえてから右上方へ向かいます。右上部では急角度に回り、思い切って長く運んで払います。縦、横の青の補助線によって偏と旁の各筆画の位置関係が確かめられます。

「門」
縦方向の筆画がすべて右下方に向かっています。青の補助線は第一筆の始筆箇所を明確にするためです。右端の長い縦画は背勢で右下方に運び、下端で押さえ気味に小休止した後、左下方に撥ねています。この字における最も太い箇所はこの撥ね出すところです。

最後に章法(字配り)について触れておきましょう。行書や草書では字間をほどよく空けながら行を通すことを意識するものの、横の段を揃えることは考えません。結果的に揃うこともありますが、普通は字の大小とさまざまな概形の相違によって、左右の字の高さは揃わないものです。さらに墨量は書き進むにつれて、文字は潤から渇へと変化してゆきます。こうした複合的な要因が紙面に自然な躍動感や変化に富んだエネルギー感を与えることにもなります。

今回の手本の場合、一字目の「兼」が渇筆で二字目の「恵」が潤筆なのは、直前の墨継ぎによって「兼」まで書き続け、相当にかすれてきたので「恵」で墨を継いだからです。臨書する際に墨量の変化までその通りにするかどうかは、筆墨や紙、気候条件等が古碑帖のそれとは異なっている以上、ゆるやかに考えてよいと思います。復元的な臨書を目ざそうとすれば、潤渇をも厳密に模倣しようとすることもあってよいでしょう。しかしもっと気楽に考えて、潤渇には適当につきあうという態度でもよいのだと思います。

次回からは草書の学習になり、初唐の孫過庭の「書譜」から始めます。

 

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