書のすばらしさを伝えたい 比田井南谷

2017年5月31日

1959年11月、比田井南谷は、サンフランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校に招聘され、サンフランシスコへと旅立ちました。古法帖千冊、拓本数十点を携えて、書という芸術のすばらしさを欧米にも知らせたいと願ったのです。

空港で見送る人々の中には、南谷に共鳴する仲間たちの姿がありました。写真左下は上田桑鳩、一人置いて上に宇野雪村、右下に岡部蒼風、その左上に伏見冲敬。文字を書かない書「心線作品第一・電のヴァリエーション」を皮切りに、次々と斬新な作品を発表するかたわら、英会話を身に着けて、米国での書の普及を目指す南谷に大きな期待を寄せていました。

一年半に及ぶ米国滞在の間、南谷はアメリカ人に持参した資料を見せ、書を教えますが、わかりやすい書道史の本がないことが、書の理解を阻んでいると痛感します。そして、自ら、書の歴史の執筆にとりかかったのです。

協力したのは書学者、伏見冲敬。資料を集め、研究し、議論に議論を重ねて「中国書道史事典」が発行されたのは30年後のことでした。

比田井天来先生は、何事もトコトンまでつきつめなければ気のすまない人であった。その資質を膨大な研究資料とともに継承されたのが比田井南谷先生である。南谷先生が「中国書道史」をまとめるについて手伝わないかと言ってこられ、私はそれこそ日毎夜毎に通ってお手伝いしたのだが、これが南谷先生のライフワークの一つとして世に問うべき立派なものになり出版されることは、協力者の一人として嬉しく、またほこらしいことだ。(1987年・伏見冲尊)

「中国書道史事典」の執筆を始めた理由について、南谷はみずからこう語っています。

書道ブームといわれ、書道人口も数百万人にのぼるとされている。書道の出版も盛んであるが、一般の人にわかる書道史がない。これまでの中国書道史についても、漢語をそのまま専門用語として用い、評語なども漢文の訓み下し文であったりする。そのうえ、専門家以外にとっては無味乾燥な作品の成立伝承をこと細かに述べ、読者が真に知りたいと思う作品の内容や価値については不親切である。

執筆にあたって意図されたのは、史実の羅列ではなく、書の芸術性を重視し、鑑賞の手引きとなること。その作品について、中国後代の学者の批評があるときはこれを現代語になおして掲載すること。専門用語は極力排除し、固有名詞にはすべてルビをつけること。

では、内容をご紹介しましょう。代表的な漢碑について、それぞれの芸術的な特徴を解説した部分を中心に抜粋します。ネットなので、ルビは省略されています。

 

開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)

開通褒斜道刻石 (永平9年・66)

これは摩崖として現存するものの中では最古のものである。陝西省の古道の途中にトンネルがあり、その南側入口の崖に刻してあったが、現在は崖から剥がされ、漢中博物館に保存されている。

書体はいわゆる古隷で、当時の人の素朴で野性的な、かつ自由で力強い表現を示し、一字一字を整斉に書くといった観念に拘束されることなく、全体的な構成変化の美を極めている。各字の結体にゆとりがあり、かつ奇抜であり、用筆は細かい線を自由奔放に駆使している。この種の作品では最高傑作の一つである。

 

右から、石門頌(せきもんしょう)、礼器碑(れいきひ)、楊淮表紀(ようわいひょうき)

石門頌 (建和2年・148)

書体は八分ではあるが、『礼器碑』(後述)のような曲雅な趣とは対照的で古意と素朴さをもっている。しかし『開通褒斜道刻石』に比べると約八十年の隔たりからくる書風の相違を見ることができる。すなわち、素朴な香りは失われていないが、文字はより整斉となり、字体が緊密になっている。また、ときに縦画を長くのばして、おもしろ味のある特徴を出しているのにも興味をそそられる。

礼器碑 (永壽2年・156)

この書は、八分という隷書体で書かれたもののうち最も代表的な傑作であり、古来非常に高く評価されている。すなわち、結体・用筆ともに非常に洗練されていて、その線は錐でほり込んだように細くしまり、あるいは筆を十分に開かせて太く、かつ線が非常に強い。石門の摩崖とは反対に、理智的な美しさを具えている。ある人は、これがあまり立派に書けているので、神様が書家に力をかしたのであろうといったほどである。要するに、隷書体の最高の境地を示すものの一つであるといってよい。

楊淮表紀 (熹平2年・173)

この文字は結体が自由でのびのびしており、文字があるいは大きくあるいは小さく、左右に傾き変化に富んでいて、構成の妙をあらわしている点では、漢碑中でも他にその例を見ることができない。この地方の人々の昔からもっている素朴な美意識が遺憾なくあらわれている傑作の一つということができる。

 

右から西狭頌(せいきょうしょう)郙閣頌(ほかくしょう)曹全碑(そうぜんひ)

西狭頌 (建寧4年・171)

書風は八分ではあるが、字形と筆意に古朴な趣がある。また、ゆったりとしていて都会的な弱さはなく、たくましさにあふれている。書者の名が明らかに刻されている碑としては最古のものである。

郙閣頌 (建寧5年)

書風は『西狭頌』に似てさらにこれより素朴であり、字形はゆったりとして、おおらかな気分にあふれ、筆致に潤いと厚味がある。古人の形容を引用すると、「ちょっと見たところ、粗鈍な感じで五、六歳の村の子供がなぞって書いたようだ。しかし、よく見ると一種の古朴な味わいがあって、よく見せようという気持がないので、行間から滲み出てくるような味わいがある」(清・『漢魏碑考』)といっている。

曹全碑 (中平2年・185)

書風は非常に典雅な趣があり、都会的な洗練された書風の一つの典型とでもいうべきである。結体はよく引き締まり見事に整っていて、線も簡古な高い響きをもっている。しかし、反面やや法にはまり過ぎているので、これを悪く習い込むと、こしらえ物のような活気のないものになってしまう。碑面(碑陽)の文字はあまりスマートな美しさが過ぎるので、碑陰のやや整斉を欠いた方をむしろ好む人もある。

 

最後に、南谷の「あとがき」から。

私の価値評価が独断を免れているといえるのは、畏友、伏見冲敬君がいてくれたのもおおいに効あったと思う。彼はさまざまな疑問点を解決するために図書館に通い、調べものをしてくれた。その結果について、いつも二人の意見が完璧に合うというわけにはいかなかった。相手を論破するためには、より多くの資料にあたる必要がある。議論は深夜に及び、ウィスキーがからになる。三十年も前の話だが、まるできのうのことのようだ。

ほんとに、お二人ともよくお飲みになりました・・・。

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書道