2014年1月 8日

天来の命日・公募展審査を考える

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1月4日は比田井天来の命日です。その様子と、去年の日展問題を受けて、公募展の審査について書いてみたいと思います。



天来の命日は、ほとんどが晴天に恵まれています。今年もそうでした。

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しかも今年は、居酒屋探検隊の隊長が参加! ということは

02墓前かんぱい.jpgかんぱーい。あらら、隊長がかくれちゃった。
年によって、お参りしてくださる人数は変動があります。今年は20人を超えた方がいらしてくださいました。

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初参加の方々、そして毎年おいでくださるみなさま、本当にありがとうございました。

去年は朝日新聞の日展問題が話題になりましたね。戦後、公募展が盛んになり、審査方法も合理的になりました。
でも、戦前はちょっと違っていたんです。
昭和12年、比田井天来が主催した「大日本書道院展」は、天来の単独審査でした。そのときの様子をご紹介したいと思います。金井正さんの手記から抜粋します。

 いよいよ審査終了の夜、大沢雅休氏の言を借りるなら「ものごとに驚かない私であるが、天来先生の精力には全く驚いてしまった。2日や3日は心の張りようで続くものだが、1週間以上も、毎日毎日早朝から夜遅くまで、この美術館を上ったり、下ったり、私などは早くも参ってしまったが、先生は疲れた様子がない。」
 その通りである。おそらく毎日7、8里は歩いたことだろう。ことに審査のときの真剣さは、あの柔和な眼に御光がさし、可否の決定の際の言葉には、近寄れない刃のさえを見せていた。
翁が少年部の陳列を巡回している中に、福島県の6歳の少年の「一心」という作品の前に来た時、その墨の黒さにすいつくようにして見入っていた。「ウム」と一言、決意の結果、この「一心」が見事金的をあて、しかも天来賞を受賞された。

一週間以上もの間、毎日7、8里(30キロメートルくらい)歩き、作品を比べるためにかけかえをし、全精力を投じて審査をするなんて、今では考えられません。将来の書壇を背負う逸材を発見するために、本当に真剣に審査した様子が、いきいきと伝わってきます。

戦後、書道はとても盛んになりましたが、よくない風習も確立してしまいました。今こそそれを見直す時期にきているのではないでしょうか。

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