2010年8月10日

魔法の時間 第8回 葉山の家(続き)

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 葉山の家にいるとき、誰もが横浜とは違う雰囲気を漂わせていた。横浜では別々に生活していても、葉山に来るといっしょの時間を過ごすことが多くなるのだ。


 横浜の家は洋室と和室が半々だったが、葉山の家は応接間以外はすべて和室だった。東に向いて十畳ほどの部屋が二つつながっていて、みんなこの部屋で、一番たくさんの時間を過ごした。中央に細長い机が並び、十人近い家族がそろって食事をする。横浜では子供用の箸を使っていたが、葉山では大人と同じえんじ色の細い箸を使った。ほかの食器も少し昔風だった。庭を眺める正面の右端は祖母の席だが、そのほかはとくに決まっていなかった。祖母は長い髪をいつもきちんと結い上げていた。化粧の仕方も昔風で、おしろいで顔全体を真っ白にした後、指で肌になじませていく。子供の私は目を丸くしていたのだろう。「何を見てるの?」と聞かれて、あせった。
 庭と逆の方向に立派な玄関があったが、ふだんは庭に向かった廊下から出入りしていた。そのほかに台所に出入り口があり、魚屋さんが御用聞きにきた。母は料理がうまく、お手伝いさんを使いながら、新鮮な魚に腕をふるった。和風の料理が多かったが、叔父が結婚してからは叔母が作るようになり、洋風の献立も多くなった。
 西側には応接間があり、ピアノが置かれていた。海から少し離れていたが、それでも潮風のせいで音が悪かった。このピアノは叔母がよく弾いていたが、叔母の結婚相手である叔父も時々弾いた。ベートーベンが大好きな父がいないので、自由な気持ちだったのかもしれない。家族はクラシック一辺倒だったが、叔父はポピュラーな曲を好んで弾いていた。あのとき、叔父に習ってポピュラーな曲を弾くようになっていたら、ピアノを辞めなかったかもしれない。

海2.jpg 夏休みも終わりに近づくと、台風が来て、遊泳禁止の日が多くなる。砂を巻き込んだ巨大な波が次々と押し寄せる様子は迫力満点で、泳げないのはわかっていても、時々見物に行った。台風が去った日は、波打ち際で貝殻を拾った。いつもは拾えないきれいな貝がたくさん打ち上げられていた。中でも、ピンク色の桜貝が美しく、壊れていない完璧な形だとうれしかった。
 泳げる日でも、台風のせいでくらげが出る。水くらげは無害だが、赤く細い足を持つ「電気くらげ」は、刺されると赤くはれた。夜光虫も体を刺す困った生物だが、夜になると話は別だ。海面は一面に青く光り、波が寄せては引いてゆくたびに複雑な動きを見せる。人気のない夜の海は、幻想的な風景へと一変していたのだった。

葉山の海2.jpg
 学校が始まる数日前、ゆりちゃんと悲しいお別れをして、一同は横浜へ帰った。なつかしの我が家というわけだが、油断は禁物。一人居残った父が、うるさい家族がいないのを幸い、親しい大工さんといっしょに外壁の塗り替えをしているのだ。たいていは落ち着いた象牙色に生まれ変わっていたが、ある年、濃いチョコレート色だったときには、見たとたん、全員ががっかりした。

 それから40年、私が出版社を立ち上げてから数年後、子供に手がかからなくなったゆりちゃんは、会社の営業事務を手伝ってくれるようになった。慣れない仕事である上、パソコンの操作をなかなか覚えてくれないので、マニュアルを渡して突き放してしまうことにした。仕事中、パソコンに向かって「えー? どうして?」を連発していたが、そのうちにだいぶうまくなった。すばらしいのは集金への責任感で、請求書を送っても支払いのないお客様すべてに電話をかけ、「先生、三ヶ月前にお送りした本のお振込みがまだなのですが・・・」と、とってもやさしく話しかける。次第にきりりとした態度に変わるのだが、ほぼ100パーセントに近い入金率だった。
 三年ほどたった頃、ゆりちゃんは突然病気になって入院した。「大丈夫よ」という言葉とはうらはらに、数ヵ月後、息を引き取った。大腸癌だった。「最近は書道が生きがいだったのにね」というお友達のことばは、今も私の心から離れない。

 その旋律を口ずさむと、潮の匂いが漂ってくる。そんな歌があった。目を閉じて、頭の中で歌ってみるだけで、湿った浜の空気に包まれてしまう。そのせつなさが不思議で、私は何度も心の中で歌ったものだ。
 なぜだろう。今、その歌を、どうしても思い出すことができない。輝く青い空や熱い砂、波の音は、今もまざまざと思い出すのだが、磯の匂いは消えてしまった。幼なかった日々は、もう遠い。

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