2010年7月 9日

魔法の時間 第7回 葉山の家

海s.jpg
「ああ、いい風だこと。海のそばは違うわねえ。」最初のトンネルを抜けると、誰かが必ずそう言った。

クーラーなどない時代、車の窓から入ってくる風は、それまでとは打って変わり、本当に心地よかった。二つ目のトンネルの手前を右に曲がり、細い坂を下りると、中央に松の木が植わった庭に出る。葉山の家だ。待ちに待った夏休みの始まりである。

 祖母は内村鑑三が集会に使った家を、葉山に移築して、別荘にしていた。そして子供たちの夏休みに合わせて、父を除いた家族全員がここに移った。祖母は、どんなときでも不自由な生活に我慢ができない性格だったし、夏休みの一月半ほど滞在するので、まるで引越しのような騒ぎだった。
 別荘は、雨戸がたくさんあり、その内側にガラス戸と長い廊下があった。誰かが鍵を開けて家に入る。端から雨戸が開かれていくのを、私たちはわくわくしながら見守った。家に入ると、一年分の埃で足の裏がざらざらした。その日は大人は大掃除、弟と私は、部屋が去年のままかどうか探検をする。一階は和室が二つとピアノがある応接間、台所、お風呂とトイレ、二階は和室で全員の寝室になっていた。台所の床下は収納庫になっていて、夏の間だけ使う食器が入っていた。

葉山の海1s.jpg 葉山にはゆりちゃんというひとつ年上の友達がいて、毎朝起こしに来てくれた。母親同士も親友という特別の友達だ。階段の下から「かーずこちゃん」と呼ぶ声が聞こえる。小さいときから朝は苦手だったので、ぐずぐずしていると、「ゆりちゃんが来たわよ。早く起きなさい」と母の声。仕方なく起きていくと、ゆりちゃんが階段に座って待っている。朝ごはんを食べて水着に着替え、麦藁帽子をかぶり、ゴムぞうりを履いて歩いていく。海までは10分ほどだったが、アスファルトの道が熱かった。近道をするために途中で右に折れると、舗装がしていない狭い道になる。木立が日陰を作り、ちょっと涼しかったが、途中に醤油工場があって、その匂いがいやだった。
 しばらく歩くと壁に突き当たる。ぷーんと漂ってくる磯の匂い、そして波の音。ゆっくり歩いてなどいられない。壁に沿って走っていく。壁が途切れ、入り口があらわれる。ああ、今年も同じ海だ。

海.jpg 浜に着くと大きなビーチパラソルを立てて場所を確保する。ござの下にゴムぞうりを隠して、浮き輪をつけ、焼けた砂の上を走って海に入る。最初はひやっとするが、だんだん慣れてくる。ゆりちゃんは泳ぎが上手かったが、私はかなりの年まで浮き輪だった。潮が強いので流されないように気にしながら、それでもかなり沖まで泳いでいった。沖にあるやぐらまで泳いでいったのは、もう少し大きくなってからだ。木の板につかまって一休みをしていると、足の下で、縞のある小さな魚が泳いでいるのが見えた。
 朝寝坊だったので、海に着くのは昼過ぎが多かった。朝から行くときは、母がサンドウィッチを作ってくれたり、海の家で中華そばを食べたりした。食事の後30分は泳いではいけない決まりだったので、砂の山を作って遊んだ。頂上に棒をたてて、順番に砂をくずしていき、棒を倒した人が負けになる。飽きると砂に水をかけてお団子を作り、食べるまねをした。

 夕方、太陽が傾く頃、家に帰った。疲れていて歩くのがだるかった。家につくと井戸水で足を洗い、そのままお風呂に直行する。お風呂のあとは、大きなやかんに入った冷えた麦茶やゆでたとうもろこしが待っている。庭に咲くピンクや黄色のオシロイバナが、夏の夕べに彩を添えた。
 ゆりちゃんは私たちといっしょに家に来て、夜まで遊んだ。時々、夜店に遊びに行った。浜に沿って、いろいろな露店が出るのだ。私は金魚すくいが得意だったが、ほかにもヨーヨー釣りやスマートボール、射的、ボーリングなどがあった。このころのボーリングは今と違い、倒したビンを人が並べなおすので、時間がかかった。楽焼のお店もあった。白いお皿や茶碗に絵を描くと、数日後に焼きあがる。麦藁帽子の形をした灰皿は、絵心がなくても、ちょっと模様を書くだけでさまになる。葉山の家にはこの灰皿がたくさんあった。

 海のそばに、砂の上にテーブルを置いた、変わった喫茶店があった。砂まみれのゴムぞうりでもOKという、合理的な店構えだ。いちごのかき氷にミルクがかかった「エコ」、かき氷の上にソフトクリームがのった「モモコ」という、当時としては画期的な食べ物があった。私は「モモコ」が好きだったのだが、ソフトクリームといちご味の氷を平等に食べたいので、ソフトクリームが乗っている状態で下の氷をすくうものだから、よくソフトクリームを落とした。
町では、土産ものを表に並べた店がたくさんあった。「海ほうずき」という不思議なものも売っていた。貝の卵の一部だと思うが、水で洗って一つずつ切り離し、小さな穴を開けて口に入れる。丸い形のほうずきは丈夫で鳴らしやすかったが、細長くて紫色の「なぎなたほうずき」は切れやすく、難しかった。

 雨の日以外は、私たちは毎日海に行った。青い空に輝く太陽、熱い砂浜、青い海。私たちは寸時を惜しんで海に入り、遊びまわった。最初は真っ赤に焼けた肌も、日にちが経つと黒くなった。ずいぶん黒くなったつもりでも、「黒んぼコンテスト」に出場する子供たちはもっと黒かった。上には上があるものだ。
 海水浴場の左手には、「森戸の裏」と呼ばれる岩場があり、大潮のときにはここで遊んだ。潮が引くと岩の間に水がたまり、小さな魚が泳いでいたので、アミでつかまえた。星の形をしたヒトデや、気持ちの悪いなまこのような生物もいた。黄色い縞のある小さい魚は「ごんずい」、毒があるのでさわってはいけないと教えられたが、見たことがなかったので、どんなものなのか今もよくわからない。

 時折、ゆりちゃんのお母さんが、とりたての見事な伊勢海老を届けてくれた。母はぴんぴん跳ねるえびをつかまえ、出刃包丁で開いて塩焼きにした。このときの光景がたたって、弟は料理が得意であるにもかかわらず、今も海老や蟹をさわれない。

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