2010年6月14日

魔法の時間 第6回 母のこと

母とS.jpg
 幼い子どもはなぜ母親を、こんなにも好きなのだろう。なぜいつも、母親といっしょにいたいのだろう。母親のそばで、いろいろな話をしたいのだ。夜もいっしょに寝ていて欲しいのだ。まるで自分の体の一部ででもあるかのように。



母と.jpg とはいっても、かならずしも自分と似ているわけではないし、その行動に共感できるわけでもない。時には迷惑なこともある。
 あれは小学校の友達の誕生会だった。クラスの仲のよい子供たちが招待され、プレゼントはなしという約束だった。それなのに、母は真珠のブローチを買ってきて、これをあげなさいと主張するのだ。私はとにかく律儀なタチだったから、強く辞退したのだが、それじゃわからないようにと、きれいな包装を新聞紙で包んで持たされた。会が終わってから新聞紙に包まれた一見地味なものを渡された友達は、意味がわからないという顔をしていた。
 私の母は、とにかくプレゼントをするのが好きだった。牧師さんの奥様に、赤いセーターをプレゼントしたことがあった。ふだん派手な服を着ない方だったのだが、とても喜んでくださった。それはいいとして、とにかくやたらとプレゼントをする。趣味を押し付けて迷惑じゃないかと思うこともあるのだが、ぜんぜん気にしない。
 父はいつも黒いタートルネックのセーターなのだが、いろんな服を買ってきて着せようとする。父は口が悪く(そのほうがウケると思っていたらしい)、ごくたまに気に入るが、たいていはぼろくそにけなす。それなのに懲りないでまた買ってくる。晩酌のつまみもそうだ。デパートへ行って、両手に大きな荷物を下げて帰ってくる。こちらは気に入ったり気に入らなかったり、半々くらいの割合だったと思う。
 小学校の美術の時間、動物園かどこかで写生大会をした。寒い日で、母はクラス全員分のミルクティーを魔法瓶に入れ、ビスケットとともに持ってきてくれた。あまり目立ちたくない私としては、ちょっと困ったが、とても美味しくてみんなに感謝された。クリスマスには、クラス全員(といっても36人だった)を家に招いてパーティーをした。近所の金物屋のご主人が手品をし、そのあとはご馳走がでた。私はなんだか気が引けたが、楽しかった。こういう話は、今もクラス会で話題になる。
 母は若い頃、後に義母となる比田井小琴から書を習った。雅号は小葩(しょうは)。小琴が考えてくれた名前が気に入らず、変更してもらったという話を聞いたことがある。また、お稽古の日にはいつも両手の荷物が重そうだったというから、さぞかしお土産をたくさん持っていったのだろう。

 母は父を生涯の間「すすむさん」と呼び、父は「やすこ」と呼んだ。子供中心の「おとうさん」「おかあさん」ではなく、そんな呼び方はなんだかうれしかった。二人はとても仲がよく、母は父の前で、少女のようなふるまいをすることがあって、それもなんだかうれしかった。家では女性陣が主導権を握っていたが、ちゃんと父をたてていた。電気系統が故障すると、「女でもこれくらいできなくてはだめだ」と言いながら、必ず父が直した。こういうことができる人と結婚しなくてはいけないと、私はひそかに思った。
 母はでかけることが多く、学校から帰ると母がいないのでさびしかった。会食などのときは、決まって何かを紙ナプキンに包んで持ち帰ってくれた。ケーキや焼き菓子だったり、おかずの一品だったりしたが、お店で買ったお土産より、こっちのほうがおいしく感じたのはなぜだろう。外にいても、自分のことを考えてくれていたことがうれしかったのだろうか。
 母はとても太っていたので、血圧が高かった。往診に来てくれたお医者さまに、「お母さんはいつ倒れても不思議はない状態なんですよ」と言われたことがある。母は平気な顔をして聞いていたが、夜、大きないびきをかいて寝ていたので、とても不安だった。
 
 比田井天来生誕百年展が三越で開かれることになった。大学四年生の五月のことだ。金子鴎亭、桑原翠邦、手島右卿、石田栖湖といった門流の方々が中心となり、作品は全国規模で集められた。
 「寝なかったからいけないんだ」と、父はいつも言っていた。母の死が自分のせいだと思っていたのかもしれない。つまり、ただでさえたいへんなところへ持ってきて、父は突然、ポスターを作ると言い出したのだ。デザイナーのデザインが嫌いだったので、撮影からデザイン、製版まで、すべて自分がするのである。することはそれだけではないから大騒ぎだ。父は夜明けまで仕事をしてお昼まで寝ているのだからよいが、母は父に付き合って夜なべをし、朝は私たちのために朝食を作る。本当に疲れて見えた。
 天来生誕百年展の前日、私たちはホテルオークラに泊まった。兄がここに勤めていたのだ。翌朝、朝ごはんを食べなくてもいいように、遅めの夕ご飯をしっかり食べた。翌日、私は和服を着て、父の会社のかすみちゃんといっしょに受付に座った。弟は友達といっしょに、父が作ったポスターを売った。美術の展覧会でポスターが売れ始めた頃だったので、父はとてもこだわり、一枚売れるたびに、河井筌廬が刻した天来愛用印をポスターに押した。そうしたら、会場を訪れた西川寧先生に、そんなことをしてはいけないといわれ、その後は押印なしで売った。
 夜、祝賀会があった。途中で具合が悪くなった方がいて、母はその世話をした。その後のことだ。私は母といっしょにいたが、しゃべっていた母が、突然おかしくなり、倒れてしまった。脳出血だった。帯をゆるめ、救急車で運ばれ、展覧会が終わってから入院するはずだった病室で息を引き取った。
 倒れる前のことは鮮明に覚えているのに、倒れた後のことは何ひとつ覚えていない。
 葬儀の日はどしゃぶりの雨だった。和服で参列してくださった方が、今もこうおっしゃる。「喪服を一枚だめにしたのよ。」そして葬儀が終わった後、空はうそのように晴れ、強い日差しが降り注いだのだった。そして私は、これからは誰とも親しくなるまいと思った。

 母はよく、夜一人で作品を書いていた。私がそばにいたとき、「こんなふうなら、年をとっても邪魔にならないでしょ」と言ったことがある。そんなことを考えているのかと、妙に感心したのだった。

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