2010年3月12日

魔法の時間 第3回 いろおんぷ

ピアノs.jpg
私の親は、私に書の練習をさせなかったが、書以外の習い事はたくさんやらせた。バレエに英会話、絵画、ヴァイオリンなどだったが、中でも一番期待していたのはピアノだったと思う。


東急東横線田園調布駅と自由が丘駅の真ん中あたりに、たなかすみこ先生が主催するピアノ教室があった。子供が楽しく練習できるように、「いろおんぷ」というユニークな学習法が採用されていた。ドは赤、レはレモン色、ミは緑、ファはだいだい、ソは空色、ラは紫、シは白というふうに色が決まっている。最初は楽譜に色がついていて、五本の指にもドからソまでの色のリボンをまいて、鍵盤の向こうに色別のカードをたて、音符と鍵盤と指が対応するように練習をするというものだった。

最初に、母に連れられて教室に行ったのは4歳のときだった。そのときの教室の様子は覚えていないが、家に帰ってから母が祖母に、「本格的にするなら3歳からで、4歳じゃ遅いって言われたのよ」と話していたのを覚えている。「なんだ、そうか」と思った私は、努力する気持ちがなくなった。世の中の大人たちは、子供だからわからないと思って不用意なことを口にするが、子供の理解力をあなどってはいけない。

とはいえ、母は熱心だった。毎週土曜日、私を連れて東横線に乗り、田園調布で降りてタクシーで教室へ行った。レッスンを受けているときもつきっきり、帰りには田園調布のおすし屋さんか自由が丘のジャーマンベーカリーで、おいしいものを食べさせてくれた。
夏休みには、ピアノ練習カレンダーが登場する。直系5センチほどの丸が、一枚に31個描いてある。一時間練習すると塗りつぶせるのだが、たいていは5分か10分であきてしまうので、白い部分のほうが多かった。

ピアノ2.jpg子供のことだから自分で作ったメロディーを歌うことが多かったらしい。母はこれを音符にして、たなか先生に見せたところ、先生の作った本に楽譜を載せてくれた。ひとつ覚えているのは「海」という歌。最後に「浮き輪のあひるもちゃぷちゃぷちゃぷ」というフレーズがあるが、この歌を思い出すたびに、前部にあひるの頭がついた黄色い浮き輪がなつかしい。

たなか先生の教室は有名で、発表会の様子がテレビニュースで紹介されたことがあった。まだ家にテレビがなかったので、祖母といっしょに元町商店街の「きくや」というレストランへ見に行った。ところが、店の主人が野球中継が気になり、「まだ大丈夫ですよ」と言ってチャンネルを変えてしまい、戻したときには終わっていた。後で誰かに「和子ちゃん、見ましたよ」と言われた祖母は、本当に怒っていた。

たなかすみこ先生の練習法は「絶対音感」がつくと評判だった。発表会では、舞台の上で、色紙を使ってピアノの音を当てたものだ。たしかに私は現在、どんな曲でも「ドレミ」で歌うことができる。たとえばト長調なら「ソ」を「ド」としてメロディーを音符にできるのだ。「絶対音」とはちょっと違う、いわば「相対音」とも言うべき不思議な能力は、今も健全だ。

発表会.jpg家にあったのは、茶色の縦型のピアノだったが、そのうちにスタインウェイのグランドピアノが来た。それまでのピアノとはまったく違う深い音で、音の調律の専門家が定期的に通ってきた。黒く光る美しいピアノは、応接間の一角を占領し、部屋の空気を変えた。
ピアノが一番上手なのは叔母で、メンデルスゾーンやショパンなど、よく知っている曲を弾いてくれた。祖母が弾くこともあって、びっくりした。母が弾くのは讃美歌で、旋律が美しい曲を好んで弾いていた。祖母が他界した後、「まぼろしの影を追いて」という母の愛を歌った賛美歌をよく弾いていた。その姿はどことなく頼りなげで、いつもの母親像とは別の一面を見たように感じたものだ。

クリスマスイブには、大きなクリスマスツリーを飾り、その下にプレゼントが積まれた。食事の後、ケーキを食べてから、みんなで応接間に集まって、母か叔母がピアノを弾き、クリスマスの賛美歌をたくさん歌った。
ピアノは小学校を卒業するまで続けた。なにしろ練習しない生徒だったと思うが、最後の発表会ではソナタを弾いた。練習のときよりうまく弾いたらしく、舞台度胸があるね、と言われた。

 ピアノ教室へ通う途中、タクシーが事故を起こしたことがある。弟がいっしょではなかったから、5~6歳頃だったろうか。T字路で横からダンプカーが突っ込み、電柱とダンプカーにはさまれたタクシーは8の字の形に変形した。新聞に出たほどのひどい事故だった。火のように泣き叫ぶ私に怪我はなく、母は重症で後遺症が残った。
昼間、時折横になっている母を見ると、申し訳ない気持ちと同時に、責任感のようなものを感じたのだった。

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