2010年2月 4日
2月初午の幅
今年は2月1日が初午(はつうま)だった。初午は稲荷神社の祭礼日、全国稲荷社の本社、京都の伏見稲荷大社の神様が和銅4年初午の日に降臨されたのに始まるそうだ。初午詣での話は「枕草子」や「今昔物語」にもみえ、江戸時代には子供が寺子屋へ入門する日となったそうである。今日でも、各地方でさまざまな行事が賑やかに行われている。
先日、東京の大越様から安永蕗子(ふきこ)『書の歳時記』を贈っていただいた。安永さんは熊本の人、歌人で書家、宮中歌会始の選者、熊本県教育委員長などをつとめた方である。この本では和漢古今の書にかかわる話材が流麗な筆致で分かりやすく豊富に紹介されている。梧竹にかかわる話題も両三篇収められている。二月の章から「初午と中林梧竹」の一部を次に引用させていただく。
二月「初午」。明治の書聖・中林梧竹の書に「正一位稲荷大明神」と書した、一行書の神品がある。一年十二幅の二月のものとして書かれたものである。
初午からいきなりおいなり様、ためらわずそれを幅にするという、きわめてダイレクトな筆の動きが、いかにも明治らしいのである。
ちなみに正月「天照皇太神」、三月「春色満皇都」、四月「天上天下唯我独尊」、五月 「蒲酒話升平」、六月「近水簾櫳探借秋」、七月「南無阿弥陀仏」等とある。四月もなるほどとたのしくなるし、七月のなむあみだぶつは一瞬あっけにとられるが、そうか、お盆のことかと安心する。天照皇太神など、ふっくりと力のこもった楷書である。文字と文字の空間が美しく空けてあるので清浄感が漂う。
安永さんの「明治らしい」という感覚を、わたしもなるほどと思った。現代の人なら「正一位稲荷大明神」を書作品にしようなどいう発想はまず出てこないだろう。先に一月の幅に太陽の女神、至尊至貴の「天照皇太神」を書いて、それに続く二月の幅が「稲荷大明神」である。梧竹はためらいもなく「正一位稲荷大明神」と書いた。安永さんはその呼吸を見て「明治らしい」という感想を書き付けたのである。
わたしはこの「正一位稲荷大明神」に庶民感覚の表現を感じている。いうまでもなく「はつうまのおいなりさん」は庶民の暮らしの臭いの濃い風物詩である。梧竹はわざわざ「正一位」と書き入れることで、「おいなりさん」と庶民の親しみの感情を表現したのだと思う。安永さんは「天照皇太神」の楷書を「ふっくりと力のこもった」と評し、「文字と文字の空間が美しく空けてあるので清浄感が漂う」と分析した。「正一位稲荷大明神」は「天照皇太神」の澄明な光をふくんだ神々しい余白とは対照的に、民話的信仰心、親近感を伴った神格表現となっている。梧竹はこの幅で 神様にでなく、初午に繰り出した庶民の雑踏にピントを合わせた。1月「天照皇太神」と3月「春色満皇都」の間にはさまって、あまり注目されないこの幅は、実は「天照皇太神」との神格の違いを見事に表現し、庶民情緒あふれる初午のイメージを感覚的に描写した傑作なのである。 「正一位稲荷大明神」の文字数も、12か月幅中でもっとも多い8字になっため、字間の余白がつまって、参道に混み合う雑踏、活気あふれる人人の賑わいを巧みに表現することになっている。「明」の大きい日ヘン、「神」の高い位置に貼り付けた申などのデフォルメも、一見デフォルメの存在に気付かないほどの自然なデフォルメとなっていて、庶民感覚表現の一幅のパーツとしても効果的な構成となっている。
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