比田井天来

天来書院 › 比田井天来 › 知られざる比田井天来 › 第28回 噫・比田井天来翁 / 松本芳翠

第28回 噫・比田井天来翁 / 松本芳翠

比田井天来没後、いろいろな雑誌に追悼文が載りました。今回は「書海」に掲載された松本芳翠の追悼文をご紹介します。河井筌蘆が、「翁の追悼文をたくさん見たが、君のが一番よろしい」と言ったとか。前半は、当時の書壇事情の舞台裏、戊辰書道会・日本書道作振会・泰東書道院をめぐる記録、後半は、天来の「建設と破壊の人生」が語られます。

大同書会

 

 

日本書道界の耆宿、比田井天来翁は、先年膀胱の疾患に罹り、東京帝大病院で手術せられて以来、とかく健康すぐれず、一進一退を伝えられていたが、去る昭和14年1月4日午後6時、遂に不帰の客となられた。享年68、洵に哀悼の情に禁えぬ。

 

翁は信州の生れで若年の頃より書を好み、研鑚怠りなかったが、遂に意を決して東都に出で、日下部鳴鶴先生の門に入った。熱心な上に非常な努力家であったので、その技大いに進み、渡辺沙鴎、近藤雪竹、丹羽海鶴とともに鶴門の四天王をもって目された。後年書学院を興して書道に関する出版著述に力を致し、書道界に貢献する所多かったが、その書もまた年と共に老蒼を加え、名声いよいよ高く、さきに芸術院が創設されるや、仮名畑からは尾上柴舟、漢字畑からは翁が会員に推薦されたのであるが、当時誰一人として異存を唱えるものがなかったのに見ても、翁の声望の高かったことがわかるであろう。

 

私が初めて翁を知ったのは、今から25年前、「筆の友」の公開審査を参観に行った時で、私はまだ22歳の若輩、「筆の友」へ盛んに投書していた時代であった。居並ぶ我々と顔見知りでなかった先生は、誰彼の差別なく、出てくる清書の一々に忌憚のない批評をせられるので、我々と面識のあった丹羽海鶴先生や武田霞洞先生が気の毒そうな顔をして居られたのを記憶している。しかし我々としてはその批評が大いに参考になったことはもちろんである。

その後、故川谷尚亭君と共に鎌倉に先生を訪うて盃を得、ご揮毫の扇面などをいただいて帰ったことがあり、まもなく鳴鶴先生社中の同好会や談書会に入会して、その例会の席上で、いつもお目にかかっていた。しかし先生と特に深い交渉を持つようになったのは、昭和3年戊辰書道会を興した頃からである。

 

戊辰書道会結成の主唱者は、高塚竹堂、吉田苞竹両君と私の三人で、その動機はというと、当時すでに成立して両三回の展覧会を開催していた日本書道作振会で、鳴鶴派の某氏排斥が表面化したため、三人がその調停に乗りだしたのであるが、どうても円く納まらない。そこで遂に意を決して、書道界浄化のために新しい会を組織し、某氏を救おうではないかということになり、私が大倉男爵の習字のお相手をしていた関係から、大倉男爵の援助を求めて快諾を得、激励のことばまで頂戴したので勇躍、まず宮尾荷亭長老に謀り、ついで丹羽、比田井両先生の参画となり、さらに河井筌廬先生の後援を得、一方田代秋鶴、鈴木翠軒、長谷川流石、佐分移山、川谷尚亭、黒木拝石、辻本史邑等、各地の同志を糾合し、時あたかも明治維新と同じ干支の戊辰の年に当っていたので、書道界維新更正の意気をもって、名も戊辰書道会と名づけて、めでたく誕生を見たのであった。

 

この間、始終先生と会して共に画策し、ある時は地位や年齢までも忘却して激論を闘わすようなことさえも会のためには敢えてした。会の成立するまでには、実に何十回となく集まり、また成立の後も、講習会や展覧会の度毎に、在京役員の会合はなかなか頻繁で、そうした場合、お互いに自分たちの用事は放擲して会のために画してきた。

 

その後、東久邇宮殿下を総裁に奉戴するに及び、作振会もまた、同じ殿下を総裁に奉戴したので、期せずして両会合併の議が持ちあがった。その時、率先して大賛成の意を表したのは実に比田井先生であった。我々は、両会の目的とするところは同じでも、会これを異にする両会のことであるから、果たして長く融和していけるかどうかと、少なからず危惧の念を懐いていたのであったが、合併のことは一に宮殿下の思召しでもあるということであったので、お互いに虚心坦懐、誠意をもって道のために尽すならば、我々の危惧するところも杞憂に属するであろうと、ここに両会を解散して白紙に返り、新たなる一団体を結成した。これが泰東書道院である。

かくて昭和5年の秋、泰東書道院の第一回展覧会を、首尾よく盛大に開催したのであったが、超えて昭和六年の春、同会の幹部役員十余名が相携えて南支視察の途に上った留守中に、泰東書道院の規則改正を策したものがあった。ために帰朝草々大波乱が起って、その結果、我々十数名の幹部の連袂辞職となり、ついで大倉男爵を会長に戴く東方書道会の結成となったのである。しかもその規則改正の画策に、意外にも比田井翁が与っていたのである。このことは、翁が後年、大日本書道院を組織するに当り、我々を鎌倉に招じた了解を求めた際、自ら語って「君には特に気の毒であった」と謝意を表せられたので明らかである。

 

かくて戊辰側から入った役員中、泰東に止まったものは翁(翁は表面には立たれなかったが)と丹羽門下の田代秋鶴、鈴木翠軒両君だけであった。これが泰東の第1次分裂で、当時泰東ではおおわらわになって同志を糾合し、補強工作をしたのであったが、一昨年、さらに第2次の分裂が起った。それに翁が関係があったかどうか、それはわからないが、ともあれ、同年比田井翁が大日本書道院を創立して、泰東脱退の人々を残らず収容しているのは事実である。

 

かようなことをいったからとて、私は今翁の功罪を論じようとするのではない。巨星墜ちて秋風落実の感に堪えず、在りし日の思い出にひたっていると、翁の取られた態度が、なつかしいまでに翁の面目を躍動しているように思えてくるので、思いいずるままを縷述したまでである。

 

学書筌蹄 比田井天来

 

建設と破壊、破壊と建設、これが翁の一生を通じ、すべての方面にあらわれた、特異の性格であったように、私には思われてならない。

第一、書風にしても、先生ほど晩年に至るまで縷々その書風の変化した人は少ないであろう。もとよりそこに一貫した風格のあることはもちろんであるが、一つの型ができあがったと見ると、いつのまにかそれを破壊して新しい建設にかかった。それは書道に関する限り、しかあるべきはずで、一面、先生が努力家であったにもよるが、より多くその性格からきているように思う。先生は自分の書風をまねられることを極端に嫌った。展覧会などで、先生の書を巧みに臨したものがあって、我々がそれを推薦しても、先生は、こんなものは駄目だといって、極度に排斥したものである。それくらいであるから手本を書かれず、従って弟子をとらないといわれた。それがかつて「学書筌蹄」という自筆の手本を出版されたので、当時不思議に感じたのであるが、しかし、それはすべて古碑帖の臨書で、先生の自運された手本のあるのを聞かない。また、晩年には先生の門下と称するものもかなりでき、先生の書風を盛んに真似ているが、それを先生が喜んでおられたかどうか私は知らない。けれども、もしも晩年にそのように心境の変化があったとしても、先生として別に不思議はないように思われる。

 

また、先生ぐらい用筆を取り替えた人も少ないであろう。長鋒、短鋒、柔毫、剛毫はもとより、およそ世にありとあらゆる種類の筆を、翁は一応も二応も試みている。私が川谷(尚亭)君と共に、初めて鎌倉へうかがった時、翁は川谷君の請うがままに揮毫を試みられたが、その時の用筆は、帳付にでも用いるような、安価な細筆であった。それに濃い墨汁をたっぷりと含ませて、根本まで押しつけるようにして、あるいは徐々に、あるいは急に、変幻極まりなき用筆を示された。

 

戊辰書道会時代には、毛の根元に金網のかかった剛毫筆を作って使用せられ、丹羽海鶴先生と共に剛毛万能であった。鳴鶴翁が剛毛を使用したら、一層立派な書ができたであろう、などと言われたことも覚えている。剛毛時代はかなり長かったようであるが、晩年にはまた純羊毫に返ったということである。甚だしい時は、一枚の条幅を書くのに幾本もの異なった筆を、取替え引替え使用されるので、傍らで観ていた人がそのわけを尋ねたところ、一本の筆では厭きるからだとの答であったので「大家になるとそんなにも厭きっぽいものかなあ」と感心したという。

 

もとよりそれは翁の例の冗談であろう。しかしいつも一つところに定着していることは、翁にとっては確かに堪らないことであったと思う。かくしてあらゆる方面において、翁は建設しては破壊し、破壊しては建設した。そうして遂に大をなしたのである。

 

翁は、無責任居士という異名をとっていた。建設しては破壊するところが、無責任らしく見えたであろう。しかし、翁は一面頗る細心で、決して無責任ではなかったと思う。かつて同好会の席上へ、牧桜雲翁が一六翁の書幅を持参したことがあって、見ると、それがいかにも拙いので、「これはいけないものではないでしょうか」と井原雲涯先生に質したところ、「一六翁にこうした時代があった」との答えで、傍らの比田井翁もまたそれに同意した。ところが、その翌日、「あれはよく見たら贋物であったから、前日の言を取り消す」とわざわざ申し越されたことがあった。これらは決して無責任の人のしかたではあるまい。

 

翁は「吾輩の無責任居士というのは、責任を無くするというので、つまり責任を果たすという意味だ」といってカラカラと大笑いされたものである。68といえば古稀に近いお年ではあるが、書道家としてはこれから一層佳境に入るところである。この上何回かの建設と破壊を見せていただきたかったのに、天齢を借さず、にわかに翁を召されたのは、誠に痛惜の極みである。(昭和14年『書海』2月号より)

ページのトップへ戻る