比田井天来

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第27回 天来先生の揮毫会 / 服部北蓮

門人の証言

昭和6年、書学院後援会主催の天来・小琴揮毫会が、埼玉県下で開かれることになりました。揮毫物の申込者募集を依頼されました。さて、その結果は? 天来の発明好きな一面など、楽しいエピソード満載です。写真は比田井天来・小琴愛用の筆。

私が文検の習字に合格したのは、大正15年で、その年の8月3日から8日まで大倉高等商業で、両正会主催の書道講習会があり、これに出席した。この時はじめて比田井天来先生にお目にかかった。先生は前年に文検の委員をやめられ、丹羽先生や尾上柴舟先生が委員になっておられた。

 

昭和2年の初冬、たぶん12月の始めごろ、木俣曲水主催の国華会から、その当時文検に合格した者にたいして、天来先生から芸術書論を聞く会を催すからあつまるようにという案内を受けたので出席した。このときの先生の話は「生書と熟書」ということであった。これは文検合格者は、熟書を最高のものと思い、生書の良さが理解されていないというので話されたのであろう。熟書は腐熟に通じて、芸術書としては下である、という話で、それによって、鳴鶴を最高権威と考え、近藤雪竹を偉い者だと考えていた私の頭は、大痛棒を喰ったように感じ、このときから鳴鶴は鳴鶴流があまりに普及したので、芸術家としての存在が希薄になる結果となったと考えた。天来先生は直接的に鳴鶴とか雪竹とかという名前は出さなかったが「贔屓の引き倒し」ということばで表現されていた。

 

昭和2年のころに吉田苞竹先生を訪ねたとき、雑談の末に、天来先生のことが話題となった。「比田井さんは風呂水の濾過装置を工夫したそうだ。大分にご自慢で、これをつければ、幾人風呂に入っても、いつも清潔だそうだ。実に工夫好きな方だ」ということであった。もっとも私が吉田苞竹先生のところを訪ねたのは、天来先生は日本一だという評判だが、それは本当だろうかという心があっての上であったので、自然天来先生のことが話題になったのだろう。

 

私が埼玉県師範学校に就任したのは昭和5年で、その翌年の春に田中成軒さんの訪問を受けて、書学院建設後援会の揮毫会を埼玉県で開きたいという申込みを受けた。そこで、揮毫物頒布の申込者を募集したのであるが、なかなか希望者が集まらないので困ってしまった。そこで相談のために書学院に行ったのであるが、申込みの多少の話を切り出す隙間を与えずに「文字改良論」を愉快に談じ、岡島無玄が来ているから話しなさいといって岡島君を呼んで、奥に入ってしまった。岡島君と私は一面識もなく、同君が無言だから私はとうとう話も交わさずに辞去してしまった。

 

8月初旬、予定の期日に、天来小琴両先生を迎えたのである。期日の前日午後から見えた。宿所は大宮市の見沼温泉旅館。講演会場は埼玉師範講堂で二日間。初日に天来小琴の両先生の講演。翌日は御両名のほかに上田桑鳩を加えた。

 

初日の講演のあとで、両先生の揮毫の実際を拝見したい方は旅館の方へおいでください、と私が紹介したものだから、35名ほどが旅館に押しかけた。すると、酒肴の準備をされて皆に馳走が出た。書学院の資金を集めるためなのか、散財するためなのかわからぬ事をして、これでよろしいのだろうかと、恐縮したのである。

 

比田井天来・小琴愛用筆

 

そのときの話に、「私は今まで剛毛の筆を使っていた。これより強い筆は鍛冶屋に打たせなければ造れないというような筆を使っていたが、美術学校の卒業生が、就職して習字を教えているのをみて、先生の使っているものを生徒にも使わせようとしている。そこで、生徒でも使える筆を教師は使わなければいけないと考えたので、今は中鋒の兼毫筆を使っている。」といわれた。そして揮毫をはじめられたが、上野さんが助手でいろいろ世話をされていた。こうして揮毫を拝見しているうちに、揮毫の申込み者が増していった。書いたものはすべて室内に紐を張られ、それにさげられ、明朝すべて見なおしてから渡すということであった。
私は聯落ちの揮毫をお願いしたのであるが、それを書かれた。実に良いのでよろこんでいると、これは岡島にやろう。君のはこれにしよう。これも良くできているよ、といわれて別のものを渡された。多分このころ、岡島君は病気をしていたのではあるまいか。それで急に岡島君に贈るつもりになったのではあるまいか。

 

小琴先生は予定の枚数を天来先生より早く終られた。すると、漢字はかなわぬといって笑っておられた。私は師範学校で昭代法帖を教科書に使用していたが、それは良いと賛成しておられた。

 

書道春秋が創刊された頃に、書道論文の募集があった。第一回第二回とも私は主席であったので、紫雲石という硯と鳴鶴先生隷法字彙というのを賞品として受けた。第一回のものは佐理の筆跡を論じたもので、それには、よく書論を読んでいるが、印々泥とか折扠股については誤解があるようだと天来先生の評があった。第二回の調和体という課題の論文では、漢字かな交じり文を書くとき、その特色を出さずに、調子よくかいたものを世間では調和体といっているが、これは調和がとれているのではなく、混和された状態である。むしろ顔真卿の裴将軍詩のようなものこそ調和体といってよい、と論じて、半知半解の音楽のハーモニーを例にとったものである。すると、評に、論文の趣旨はよい。ただし論文に添えた作品はよくない、とあった。

 

埼玉で頒布会のあった後で、ご両人は四国に旅行なされたのであろうか、小琴先生から四国の旅先にてというはがきの礼状をいただいた。

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