比田井天来

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第26回 書道講習会の記 島根県遊歴 / 山本煮石

門人の証言

昭和11年に島根県で行われた講習会の記録をご紹介します。講習は「書道史」や「字典体と書写体の別」などで、当時としては最先端の内容だったのでしょう。講習会参加者の熱気が伝わってくるようです。

比田井天来講習会
昭和11年5月 天来書道講習会(島根県教育会館) 裏書によると、前列左から和田観雪夫人、岸田鈴子(岸田大江夫人)、4人おいて和田翠雪、井原自琢、比田井慈子(3女)、比田井小琴、比田井天来、岸田大江、二人おいて和田観雲。最上段大きな木の右側が比田井清衛(天来の兄)。前から三列目左から二人目は「比田井氏」と書かれているが不明。 前から三列目右端は筆者、山本煮石。

比田井天来・小琴両先生ご夫妻をこの山陰の地にお迎えして、書道講習会が開催されたことは、正に晴天の霹靂であった。

天来先生がすでに書道史上に燦として輝く不滅の巨星であることは、当時御生前群をぬきんでていられたことであり、その僻地にお出でを願い、卓抜な書道に対する芸術観を抱いておられ、書学院を率いてみずから着々と巨大なる業績をお挙げになっている明治大正昭和の三代を渾然として一如の境涯において融溶され、さらに書道をして芸術としての近代精神に打ち樹てられた一大宗源であることを想到して全く驚異であり、驚愕でしかなかった。

時あたかも若葉の萌える昭和11年5月17日、島根県教育会館で午前、岸田碩南先生(当時島根師範学校教諭―現号大江)の感入った熱烈さを内に包含したご挨拶に始まり、かつては写真で拝見したことのある童顔長鬚からやおら御講和が始まった時、夢かとも…、何とも名状しがたい神秘感にさえ襲われたくらいでした。

天来先生はだんだん口ごもられながらお話しになるとか承っておったが、その通り訥々乎として諄々と諭すが如く独り娯しむに似て、厳正に古今の書道史の流れに沿い名蹟を述べ、書の道を手引き、字典体と書写体の別と源流をご教示いただいたのだった。

あえて言う、近代書聖の御風貌は永久に忘れることができないと。

午後はまた小琴先生の和服の上にコートを装われ、薄紫色であったかと思うが、御病後とのかぼそい御声でいとも御やさしう手習いの道を明治天皇の御製をそらんじ交えつつ御講和された。当時国定書き方手本筆者として、また御高名な閨秀作家とし御迎えできたとすれば、一入懐かしさと親しさを感じるのに、正に平安女人のおもかげと大宮人さながらの御人柄を目の前に、唯道を求める楽しさに浸るばかりでした。

翌18日午前はいよいよ天来先生の実地指導があった。前日の御話に引き続いての実際、松江翠雲堂製の新しい筆を全部おろして即座に剛毫も柔毫も何のその、何の変哲も苦渋もなく、自由自在に揮灑されて、行く水の流れにつく如しでした。

さらに摸造紙に大字で各時代の代表的なものを御書きいただき、欧法(皇甫誕碑)の同一箇所を剛毫柔毫両方使用して示し、御教示をいただいた時、当時は剛毫一点張りのいわゆる文検調をしか思ってもいなかった折柄、唯々驚嘆し、道の深さ聖なるものを胆に銘ずるのみであった。

小琴先生は高等科手本にあった「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」をご説明になり、一々全員のご添削をされたり、丸をゴッポリいただいて喜ぶ面々の貌をニコやかに眺められ、温顔微笑は温かさに満ちていた。

一夕、宍道湖畔臨水亭において歓迎会が催され、小子もその席に侍らせていただいた。畏友糸賀八通兄と二人、恐る恐る天来先生の膝許近く参上し、一盞を献じ、「先生にお言葉をいただく機は絶後とも思えますが、お導きの御辞を賜りますよう」とお願いしたところ、やおらお考えになりながら「私が書道に思い立ったのは出雲の地ですよ。今から19年前ですが・・・。熱心にやることですね」とニコニコしながらおっしゃった。小琴先生もお側から相槌をうっていらっしゃったが、お話のことは忘却し去った。が、八通兄と二人安来節を乞わるるままチョイと出したところ、この上なく喜ばれたことをなつかしく思う。

この時の記念に天来先生の色紙「朝霞開暉」をいただき、条幅として揮毫していただいたのは
 天来先生-龍遊鳳集(楷書一行)
 小琴先生-(明治天皇御製)松風をしのぎしのぎて荒磯の松は十歳の根を固めけむ
でした。

回顧すれば、昭和13年戊寅帖なり、昭和14年正月ついに翁に天は寿をかさず、不帰の客となられたことを偲べば、この前4、5年間こそ先生の最晩年最も書華繚乱として満開の期ではなかったのではなかろうか。

両先生をお迎えしての書道講習はその真っ只中に当たるのだ。

幸いなりし哉。島根の書道は誠に幸せであった。

再び天来先生の隠岐ご来遊とその光を添え、より大きなより新しい躍進を遂げたことは、松江市に山陰書道院が許され、「八雲」がいよいよ栄えたことで明瞭であろう。

さらに、岸田大江先生がその種まきをされ、渡満、復帰、翁の神髄を伝承して「開眼誌」に発展、今や種々乎として前進している姿こそ泉下にもって瞑さるべき天来先生・小琴先生、ご夫妻の温容なる微笑でなくて何であろうぞ。

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