比田井天来

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第25回 天来自叙伝

天来のことば

このたび、臨書の傑作集『天来習作帖』が刊行になりました。 ここに「自叙伝」があって、知られざる素顔が見えますのでご紹介しましょう。 現代語訳は筒井茂徳先生です。

比田井天来自叙伝

道人は名は鴻(こう)、字(あざな)は子漸(しぜん)また萬象(ばんしょう)、文芸のことにはおおむね象之(しょうし)を名とした。天来道人と号し、別に画沙(かくさ)また大樸(たいぼく)と号した。(明治五年=一八七二)長野県北佐久郡協和村(現在の佐久市協和)に生まれた。父を清右衛門という。祖先以来、この地に居住すること十数代、代々名主(なぬし)であった。道人はその三男である。

幼くして小学校の学業を修めることを嫌い、欠席が月に十数日を数えた。道人の家は製糸業を営み、大工や鍛冶屋(かじや)が出入りすることが多かった。道人はその道具をおもちゃとして物を作ることを楽しみ、職人が来る日はたいてい口実を作って登校しなかった。それで父に叱られ、座敷牢(ざしきろう)に入れられたことが何度もあった。村の老人たちは今でもこのことを憶えていて、共に談笑することがある。しかしながら学校の成績はほぼ二、三番を下ることはなかったのは、先生にかわいがられたからであろう。当時の学校制度の寛大さを想いみることができる。

青年になってそのあやまちを大変後悔し、依田稼堂(よだかどう)先生の有隣塾(ゆうりんじゅく)に入って漢学を学んだ。三、四年後に家に帰り、常に一室に閉じこもって、一日中、一歩も家の外に出ないこともあった。本を友として、世間の人と交わることを好まなかった。そのあげく病気になり、医者の勧めによって、父や兄から読書を禁止されたことで書道を独習することになり、ほぼ各書体に通じた。治療のためにしばしば東京に往復したが、その際にかたじけなくも巌谷一六(いわやいちろく)、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)両先生のほか、名士たちに認められることを得た。横浜市遊行寺(ゆぎょうじ)の住職から白隠(はくいん)和尚より伝わった錬丹術(れんたんじゅつ)の伝授を受け、これによって持病が全快した。それ以来、東京で学ぶようになって哲学館および二松学舎に入学し、日下部先生に入門して古碑帖(こひじょう)に拠って書道を研究し、それまでの欠点を悟って大いに得るところがあった。ひとえに鳴鶴先生のお教えのおかげである。

研究の合間に東京陸軍地方幼年学校および同中央幼年学校に務め、若林快雪(わかばやしかいせつ)、稲垣師竹(いながきしちく)、佐成芹川(さなりきんせん)、渡辺沙鷗(わたなべさおう)、前田黙鳳(まえだもくほう)、久志本梅荘(くしもとばいそう)、近藤雪竹(こんどうせっちく)、井原雲涯(いはらうんがい)、松田南溟(まつだなんめい)、丹羽海鶴(にわかいかく)などの諸氏と親しく交わった。道人はこれらの諸先輩にはなはだ推奨していただいたが、実力が伴わないのを悟って居を鎌倉に移し、かくして書道および実用文字学に専念することができた。のちに病気になって職を辞し、また錬丹術を修めて病を治した。

東京高等師範学校の文科に初めて習字科を置くにあたり、選ばれて講師となり、毎週一回、鎌倉から通勤した。道人は碑帖の収集に全力を尽くしたけれども、なお不備のものが多く、十分な研究ができないのを残念に思って、五年間を犠牲にして研究所を建設しようと計画し、職を辞して各地を遊歴し、大正十二年(1923年)七月、東京と横浜との間の鶴見町の土地を選んで書道院の建築に着手した。同月下旬、鎌倉を出発して長野県下に遊んだが、南佐久郡(現在の佐久市)野沢町に滯在中、突如として起こった関東大震災は道人の計画と事業とを根本的に破壊することになり、資産の大半は失われて鶴見の建築は放棄せざるを得ず、鎌倉の住宅は全壊するという災難に遭遇した。しかし家族や動物にけがが無く、本が火災を免れたのは不幸中の幸いであった。その年の十一月、信州上田に難を避けた。

大正十三年(1924年)二月、また病気にかかって外出できなくなった。同年六月、居を東京に移し、病をおして編纂に従事し、書籍を出版してなんとか持ちこたえた。三年後、病がしだいに治ってきたので、また遊歴の旅に出、初志の貫徹に努めた。しかしながら道人はやや遊歴にも疲れ、かつ大正八年(一九一九)以来、東奔西走してほとんど休む日もなく、勉強がおのずとおろそかになって、いたずらに年をとるばかりであった。今ここで一つ奮励努力して挽回をもくろまなければ、おそらく俗なくせが生じてしまうだろう。しかし学院の建設もまた行きがかり上、中止するわけにはゆかない。やむを得ず親戚や旧友から借金し、新たに地を東京市外南山谷三百八十八番地(現在の渋谷区代々木)に定め、五年の予定に十二年を費やして、ようやく書学院の建築が成った。今後なお数年間はこのために煩わしいことから逃れられまいが、後悔しても追いつくまい。しかし私には錬丹術がある。朝に夕に怠らなければ、長生きして失った歳月を取りもどし、さらに大いに仕事ができるであろう。しかしながら年をとってまたしきりに幼時の怠け癖が再発しそうで、わが父に叱ってもらいたいと望むも詮(せん)ないことである。道人しるす。

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