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第21回 不教の教え / 上田桑鳩

門人の証言

天来はずっと弟子をとりませんでしたが、晩年、全国から優秀な青年を呼び寄せました。 最初の弟子は上田桑鳩で、昭和4年から比田井家の敷地内の家に住み、勉強しました。今回は、戦後、独創的な仕事をした桑鳩に対する天来の教育法です。

第21回 不教の教え/上田桑鳩
後列左が上田桑鳩、右へいくと小琴、天来、田代秋鶴。その前中央が原田春琴、前列左から二人目が大沢雅休、その右が桑原翠邦。

仕事の疲れを癒すつもりで、横臥して吉川英治の宮本武蔵を読んでいた。武蔵が峠で愚堂和尚に道を問うと、和尚は武蔵の立っている周りに、杖で円を描き、これを踏み越えないで出てみよというところへ来ると、自分が天来先生から受けた不教の教えを思い出す。

先生は晩年こそ、朱筆を取って習いにくる人たちに添削したり、書いてみせたりせられたが、まだ門生を取らないと頑張っておられた昭和4、5年頃の私への教えかたは、全く禅問答のようなものであった。よく白隠禅四師が信州の飯山で、正受老人によって見性した話を聞かされた。それは、白隠が雲水の頃、正受老人の名を慕うて入門を許されんことを請うのでありが、どうしても許してくれない。そこで門前に坐して許しのあるのを待つと、老人は帚をあげて打ちすえる。禅師止むなく山を降っているうちに見性した。そこで、今度は老人に問答をかける積りで山へ引き返して行く。遠くから急いで上って来る姿を眺めた老人は、禅師の体ごなしを見て、出来た出来たと打ち喜び、禅師に声を出させないで座敷に通し印可を渡すという筋書きであった。

それで、私には習うべき手本を申渡されただけで、先生は書いてもせられず、一週間の間に、この要領を摑んでしまえと命ぜられるだけである。もし一週間目に清書を持って行かないと矢の催促である。先生の邸内に住んでいたから、毎日の催促は恐ろしかった。それでやっと持って行くと、ぱらぱらとめくって見て、これはいかぬ。もう一週間。といわれるだけで、どこが悪いのか一切いって下さらない。また一週間一生懸命に習って持って行くと、見るか見ないで、これでよし。次は何の碑だと課題が出る。これを前の碑帖とは全く反対の傾向のものなのだから、少しく手に入ったと思う手法は、全く捨てて新しい手法を探究しなければならないのである。それだから、前に得た手法は今度は邪魔にこそなれ、全く用をなさない。これをがむしゃらに続ける苦しさといったら、筆舌を絶するものがあった。それで少しでも愚痴をこぼすと、迷って迷って迷い抜かせるのだ、そうして出口を自分で見つけさせるのだといって笑っていられる。くやしいが、何とも致し方はない。只無知な人間のように、黙々として努力するばかりであった。 こんなことが、何か私に力を付けてくれたように思う。然し、習った法帖の特徴を、具体的に説明せよなどいわれても、全く出来ない。唯、心の中で分かっているだけだ。それがために、書道芸術社を始めてからも、法帖の鑑賞や批判をする段になると、私が一番ものが言えなかったし、いつでも要領を得ていないようであった。

それから数年後、先生が信州の郷里で講習をされたことがあって、私もお伴をして手伝った。先生は席上で条幅を書かれたが、私は講習生の中へはいって添削をしていた。あまり先生の書きぶりの調子がよいので見に行った。ところが、紙を引いているのは講習生で、馴れないと見え、紙の扱い方が非常に拙いので私が替わった。すると、今まで闊達に書いていられた先生の調子が旧に緩くなり、用筆法も平素書かれていた法に変ったらしく、作品も平凡になって精彩がなくなった。

調子のよかった時は、先生は別な新しい用筆法で書かれていたらしい気がするのだ。そこで私は直感的に又新法を発明されたと知ると同時に、それ私には匿そうとしていられることも感づいたのであった。又例の手だなと思う。こんなことがあって以降は、私も、なるべく先生の書かれるところは見ないことにした。そうして、自分で自分の手法を工夫するより外はなあいと、いよいよ覚悟を固くした。先生がかくも匿される以上、何としても盗むことが出来ないからであった。

その後先生が病まれ、病中に戊寅帖所載の作品などたくさん書かれたが、その時も、先生によい作品を作っていただくためにも、又私が先生の法を盗見しないためにも、書かれるところを見に行くのを、わざと差し控えた。なくなられてみると、取り返しのつかぬ、おしいことをしたと思うが、先生の私に対する態度を思い、自分の決心の程を思うとそうするより外なかったのである。そのために、今もって先生の最終の用筆法は知らない。(後略・『蝉の声』より)

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