比田井天来

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第14回 天神様 / 田中一誠

門人の証言

天来は、その生涯の多くを、全国への遊歴にあてました。地方へ出かけてそこで作品を書き、頒布するのですが、その成功の裏には、有能なプロデューサーの活躍がありました。田中誠爾(せいじ)氏です。田中氏は天来の遊歴先が決まると、代表的な作品写真と価格表を印刷したパンフレットを作り、みずから現地へおもむいて、地元の書道科の先生や有力者に世話役を依頼し、予約を取りました。 これから4回にわたってご紹介するのは、田中誠爾氏ご子息、田中一誠氏の手記です。怜悧な観察眼と愛情溢れる描写によって、ユーモアに満ちた天来像が浮かび上がります。

第14回 天神様/田中一誠」/岸田大江

大正8年、北海道遊歴中の天来(前列中央)。右端が田中誠爾氏、後列左端は田中雄太郎氏。

私が天来先生に初めてお目にかかったのは、大正8年の夏、北海道小樽市のお寺であった。

当時、父(田中誠爾)は、学校の教師を辞めて、鈴木組に転職してまもなくのことであった。父の恩師、日下部鳴鶴先生から「比田井天来君が、北海道へ初めて揮毫と講習のために赴くので、よろしく頼む」と懇望されたので、父は、会社勤めのかたわら、小樽と札幌の名士や実力者を訪ねて、揮毫募集にかけまわった。 教員時代から広く各方面に知遇が多かったし、それに好きな書道のことでもある上に、恩師、日下部先生に対する恩義にむくいるためでもあろう。夜を日に次いで奔走したので、だいぶ成績をあげたようであった。

ところで、当時中学生の私は、父のいいつけで、天来先生のお宿であるそのお寺へ日参して、墨磨りのお手伝いをした。揮毫の趣意書を見ると、当代一流人の名が列ねてある。松方正義、頭山満、加納治五郎、犬養木堂、公爵西園寺公望、日下部鳴鶴、釈宗演等々の御歴々である。その揮毫条規では、小半切はたしか十円くらいであったように記憶している。

当の天来先生は「天来翁」を自称していたので、初対面までは老人と思っていたところが、47・8才くらいのお年であるので、これには驚かされた。イガグリ 頭で、あごひげを生やしており、気品が高く、なかなかの好男子である。「文祖菅公」はきっとこのような人であったのかなと、子ども心に思ったのである。それ以来、天来先生のことを「天神さま」と愛称をつけてしまった。

先生は「墨をするときは、常に病夫か、15・6才の乙女がするように、ゆっくりするがよい」といわれたが、どうも、病夫でも、娘でもない私には、ぴんとこ ない。とにかく、ゆっくりと平静な気持ちですったものの、遊び盛りの私は、毎日毎日のこの墨磨りには、少なからず閉口した。

やがて天来先生は、小樽から札幌に移られた。札幌では、最高級の旅館、山形屋に投宿された。札幌といえば、北海道の首都であるので、これに移られてからは、来訪者が日ごとに多くなった。また、時計台で開かれた書道講習会は、実に盛況を極めた。先生は、当時文検委員と東京高等師範学校講師もしておられたので、講習生には、小中学校の教師が多かった。今のようにマイクがなかった上に、先生はとてもお声が低いので、後方の人々にはよく聞き取れなかったため、聴講者の多く弱ってはだいぶいたようであった。

先生は「古法帖を基礎として学べ」と提唱力説された。このようなことは、書道界空前のことで、このために書道界に一大エポックがもたらされたのである。まさに書道界のルネッサンスともいえよう。

ともかくも、PRもなかなか至れり尽くせりであって、揮毫も講習も予想以上の功を奏したことはいうまでもない。

鎌倉時代

天来先生の北海道遊歴の目的が達せられ、その成績が上乗であったので、先生はこのことについての自信が、いやがうえにも出たのだろう。決然として文検委員と東京高等師範学校講師等の公職を退き、筆菅一つで立つことになったのは、大正九年の春であったと記憶している。

「書道館建設後援会」が鎌倉小町の自邸に設けられ、私の父が招かれるままに、大正九年三月、住み慣れた小樽を離れ、鎌倉の扇ガ谷に転住した。そして後援会理事の任につき、田中雄太郎(鹿川)さんと、もっぱら事務局を担当することになった。この書道館建設の壮挙、ひとたび天下に発表されるや、各方面から寄付があったが、先生は一々ていねいに手紙を書き、一切の篤志寄付を断ったのであった。

天来先生の処女出版は、大正十年の「学書筌蹄」で、たしか五百部の自費限定出版であったが、これが書道愛好家になかなか好評を博した。次いで小琴先生の筆になる「四季の歌」の刊行であったが、これは小琴先生の恩師、阪正臣先生の書風があまりにもよく表れていたようであった。

大正十二年九月一日の大震災のときまでの鎌倉時代は、先生の生涯のうちで、もっとも尊いものであったと、今も堅く信じている。それは、学書に専念しておられた時代で、先生の後半生のファンデーションを礎いたものと思われるが、この鎌倉時代の作品は、先生の作品中、私は一番好きである。

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