比田井天来

天来書院 › 比田井天来 › 知られざる比田井天来 › 第12回 「黒木御所遺址の揮毫」 / 岸田大江

第12回 「黒木御所遺址の揮毫」 / 岸田大江

門人の証言

島根県隠岐の高台に「黒木御所遺址」が建っています。署名はありませんが、これを書いたのは比田井天来でした。 今回の文章は、これが揮毫されたときのことを詳細に綴った手記です。天来や見守る人々の息遣いまで伝わってくるようです。

第12回 「黒木御所遺址の揮毫」/岸田大江

つと起って鹿川の側へよられる天来先生。小筆をとって硯に墨をかきまぜながら「そろそろいいかもしれんなあ」とつぶやきながら、画仙紙の切れ端に「黒木御所遺址」と書かれる。また何枚も何枚も推敲される。楷書や隷書、そして篆書のものもある。色々といろいろに書いていられる。まったく至誠館は静かである。 鹿川に小声で何か命ぜられた先生は、下へ立って行かれた。

いよいよ碑の揮毫が始まるのだと一座は緊張する。小琴先生が自ら鈴子を左手に大画仙を聯落にされ、毛氈にのべられた。

先ほど海より帰った南谷曹子が取り出した中国製の大筆を2~3本大硯にひたす。硯の位置を上下に位置がえしたり、画仙も新しいのを折って用意するなど、あれこれ若いだけにきびきびして気持ちがいい。整え終わってまつ曹子の瞳も、鹿川のそれも、異様に輝いている。

手洗いに立たれたとのみ思っていたところへ、先生はあごひげに水滴を光らせながら、新しい湯上り姿で上がってこられた。鹿川が「斎戒沐浴」と小声で教えてくれた。私は妙に背筋がずきんずきんとなりだした。

紙を前にして立たれた先生は、じーっと見ていられる。森巌の気がただよい、寂に緊張した空気は次第に霊気をはらんで深まる。腕時計の音がやけに大きく聞こえてくる。

楷にあらず隷にあらず篆にあらず天来書の顕現をここに見た。それは筆舌につくし得ぬものであり、侍してこれを拝した私の心より永久に消えやらぬ感動であり、驚異であり、無限のうれしさであった。

静かに書き終えられた。誰もが嘆声をあげえない。茫然自失とはおそらくこのことを言うのだと思う。

「にじみ!」先生の口からはじけるように飛び出す一語。墨の上に画仙を重ねて吸い取ったのも、ただ無我夢中だった。

じーっと先生は見ていられた。

「よし」「これでよし」小さく強く念を押すように申される言葉には、なしとげたやすらぎと無限の喜びの響きがあった。ここに比田井天来の世紀の傑作が生まれたのだ。昭和11年8月28日のことである。素晴らしい。雄渾である。神彩が感じられる。後醍醐帝ここに在すの品位があたりをはらって拝される。天来先生が居られる。27歳の青年である私がたまろう。涙が出る。

先生もよほど快心作らしく、まことに清く、世にも美しいお顔だった。ここに初めて和気を取り戻し、「はー」と嘆声を発する周辺だった。

敷島に小憩される先生に、こおどりしながら村長が「ご署名を」と言った。「これでいいのですよ。」先生が何気なく答えられた。私ははっとした。先生の至誠が、自信と謙虚と両面を踏まえて余すところもなく感じられ、偉いなあと心の底でうなづけるのみだった。このことは、次々に語り伝えられたときには「私の書名なんかしなくても、私の書ということは誰にでもわかるですよ。まして帝のご遺跡に建てるものに私如き者の書名ては相すまぬことです」などと、まことしやかになったことにつながっている。

有志達も一同も、しばらくは両手をついて拝するのみだった。

一世の巨人が斎戒沐浴の上、天地の霊気を受け、傑作が生まれるのを目の前にしての感動は、到底忘れえるものではない。27年後の今もなお、ありありとよみがえってくる。今もなお、思うて身震いを禁じえない私である。

和やかにくつろがれた両先生に対して、かわるがわるお礼を申し上げた。そして深い尊敬と感謝をあらわして、つきぬがごとくその悦びを語っている有志達であった。

有志達の意を、私が小声で「お礼はいかがいたさせますか」と伝えれば、「私如きものが奉納をしていただくだけで光栄であり、一家の誉れであるのに、お礼などいただけますか。私が死にますよ。私こそお礼を言わせていただきます」とごく自然に言われた。有志達も異様な感動でうなづきあって、礼にもならぬ言葉でお礼を申し上げていた。

この感動は大きく、島民の上下に波動していき、献身的な努力と奉仕を生み、別記の次第により、素晴らしい黒木御所遺址の建碑がなされ、孤島に天来先生一代の傑作が永久に遺されることになったのだ。

この日、午後、海土の後鳥羽院の痛恨の史跡や、これにつながる忠臣、村上水軍の頭領村上助丸郎邸を訪ね、往古を偲んで涙された両先生は、隠岐の情緒を心行くまで満喫された。

その後は、ふたたび至誠館に名残の夢を結ばれ、島人達のかぎりない尊敬と感謝に送られて、翌朝の隠岐丸で島後西郷に向かわれた。時に昭和11年8月29日の靄深くたちこめる6時であった。

ページのトップへ戻る